彼は慰められ、強く心に残ったが、それを書いているのが洋子だとは夢にも思わなかった。

二〇十一年三月十一日のあの地震を、洋子はジュネーヴにいながら知った。
蒔野と洋子の人生は、彼らの知らないところで再び交差しようとしているー……。

 ドイツの人口を半減させたとも言われるその凄惨な戦争後に、バッハの音楽が生まれた必然性を、彼女は、バグダッド支局で、蒔野が二十代半ばで録音した《無伴奏チェロ組曲全集》を聴きつつ感じ取ったのだった。その事実が、震災後、絶えず見舞われる無力感に抗する力を、彼に与えてくれた。

 家族を守るという思いに変わりはなかった。しかし、ギタリストとしての蒔野は、そうして洋子の存在を再び強く意識しながら、震災後の一年を過ごしてゆくこととなった。

 洋子は、二〇一〇年末からジュネーヴで勤務し始めていた。最初の二カ月ほどは、人権監視活動という仕事にもNGOという組織にも不慣れなのに加えて、二週間毎のニューヨークとの行き来が、想像以上に体にこたえて、なかなか生活のペースを掴めなかった。寒い季節に新しいことを始めてしまったことも、疲労の要因となっていた。

 それでも、賑やかな摩天楼と静かな湖畔の町という組み合わせは、想像していた通り、悪くはなかった。

 慣れてくると、十代の頃のスイス人の友人と、二十年ぶりに再会するなど、生活にもゆとりが出てきた。昔通っていた学校まで足を延ばしてみたり、湖畔や旧市街を散歩したりしていると、自分の中にまだ残っていた十代の頃の感情が蘇って来るようだった。ジャン=ジャック・ルソーの生家の記念館にある小さな図書館で、静かに古い稀少本を読む時間に特別な喜びを感じた。

 仕事は、コソヴォから逃れてきたロマの難民の強制送還問題と、フランスでの中東難民の住居問題という、洋子自身にも関わりのあるテーマに取り組んでいたが、チュニジアで〈ジャスミン革命〉が起こり、それが北アフリカから中東にかけて、連鎖的な広がりを見せ始めると動向に注意を払った。

 自ら現場に足を運ぶというのではなく、挙がってきた情報を精査して政策提言を行うというのが基本的な仕事で、国連人権理事会の会期中は、ほぼ毎日出席して、各国の代表を前に演説をした。そのための原稿は、新聞記事とはまた違った文体を求められた。

 苦労は多かったが、洋子は新しい生活に、次第に充実感を見出していった。自信が戻ってきた分、ニューヨークでのケンとの生活にも一層の喜びがあった。

 洋子は、東日本大震災をジュネーヴで知った。すぐに日本支部のスタッフは固より、長崎の母親や東京の知人とも連絡を取ったが、直接の被害に遭った者はなかった。

 洋子の母親は、震災後、二月を経た頃から足繁く東北にボランティアに通った。洋子自身は、日本語の報道に偏りを感じて、生まれて初めて匿名でブログを立ち上げ、英語、フランス語、ドイツ語の新聞やテレビのニュースの中から、有益であると思われるものを選んで翻訳していった。著作権を侵害していることは知っていたが、非常時なので、クレームが来れば削除に応じるつもりでいた。

 誤情報は、更なる混乱の原因となるので、取捨選択は慎重に行ったつもりだったが、とりわけ原発関連の記事は多く引用され、激しい議論を巻き起こすこともあった。

 洋子のブログは、一月ほど経った頃には、一記事あたり数千人規模でシェアされるほど有名になっていた。震災後、幾つか出現した同様のサイトの中でも、特に参照件数が多かった《東日本大震災についての海外報道》というあのブログの管理人は、実は洋子だった。

 蒔野の安否も気になって、洋子はこの時にまた、彼の名前を検索している。彼だけでなく、彼の子供のことも、子供の母親のことも—つまりは早苗のことも—心配した。家族として、夫婦が助け合いながら子供を守り、この危機を切り抜けることを自然と祈っていた。早苗なら、何があっても蒔野と子供の安全を第一に考えるだろう。そう期待する自分を意外に感じつつ、しかし、当然のことのような気もした。ただ、早苗自身が精神的に保つかどうか気懸かりだった。

 蒔野が無事であることは、コンサートの決行を巡ってなされたバッシングを目にして知ることとなった。洋子は、恐らくは思い悩んだ末のことであろうその決断を、蒔野らしいと感じた。そして、その思いを理解し、共感し、彼を改めて尊敬した。

 震災後、東京で催されたコンサートを好意的に報ずる古巣のRFP通信の記事を紹介した際に、洋子はいつになく長いコメントを付して、日本で非難の対象になっている音楽家たちを擁護した。その具体例として、彼女は特に蒔野の横浜でのコンサートに言及した。

 蒔野は、木下音楽事務所のマネージャーに教えられてその記事を目にし、非常に勇気づけられていた。

 普段は震災関連の記事ばかりなので、些か唐突で、一体どういう人なのだろうと話題になった。理解者がいるということに、彼は慰められ、強く心に残ったが、それを書いているのが洋子だとは夢にも思わなかった。

 洋子もまた、自分の記事を蒔野本人が読んだかどうかは知らなかった。

                *

 蒔野の《無伴奏チェロ組曲全集》は、二〇一二年二月初めに発表された。洋子の愛聴した旧盤は、今でも雑誌のクラシック特集などで、この作品の〈必聴盤〉に挙げられる彼の代表作だが、その演奏を震災後に更新することに、彼は特別な意味を感じていた。

 録音はロンドンのアビイ・ロード・スタジオで三日がかりで行い、定評のあるポスト・プロダクションにもかなり細かく口を挟んだ。スタジオを選定したのはレコード会社で、ビートルズには思い入れがないものの、クラシックの録音でも有名なここでの作業を蒔野も楽しんだが、CDが発売されると、散々「あのアビイ・ロード・スタジオで録音!」と喧伝されて気恥ずかしくなった。

 アルバムの出来映えには満足していた。国内外で一斉発売され、不安だったが、評判は上々だった。「救われた。」といった普段は聞かない感想の言葉にも多く接した。取材では、彼自身の“スランプ”のことや子供の誕生のことなどを質問され、当然に震災の影響についても尋ねられたが、それにはただ心境を語る程度だった。一年は経ったものの、津波被害からの復興にせよ、原発事故の後始末にせよ、まだ進行中であり、あまりに規模も大きく、うまく言葉にならなかった。

 何を売るにも難しい時期だったが、蒔野にとって予想外だったのは、《レコード芸術》の〈特選盤〉となっただけでなく、フランスで最も権威のあるクラシック音楽専門誌《ディアパゾン》の金賞を受賞し、話題となったことだった。更には、CNNの震災特集番組の中で、地震直後の横浜でのコンサートとバッハのレコーディングの映像が流れたこと、ネット上に《この素晴らしき世界》の楽譜を掲載し、世界中のギター愛好家に公開レッスンをするという野田の企画が、ここに来てうまく行き始めたことなども手伝って、ビルボードのクラシック・チャートでも十位以内にランクインしたという連絡を受けた。

 蒔野は、二〇一二年の夏にはキューバとブラジルで演奏することになっていたが、その前に、ニューヨークのマーキン・コンサート・ホールでの公演が決まったのは、このバッハのCDの好評を受けてのことだった。三十年の歴史のある四百五十席ほどの会場だが、数年前に改装を終えて、音響面では飛躍的な向上を見たという評判だった。

 チケットの売り出しは悪くなく、必ずしも日本人ばかりが買っているというのでもないらしかった。蒔野は知らなかったが、その購入者の中には、小峰洋子も含まれていた。

 バッハのレコーディングのために、ロンドンに滞在していた時、蒔野は実は、洋子を一度、見かけていた。—テレビの中だった。

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