「ママ、いまのとこ曲がるんだよ」
リディアは軽くブレーキを踏んだ。バックミラーをチェックして車をバックさせる。後続の車がクラクションを鳴らしながらリディアの車をよけていった。
ディーはスマホを取り落としそうになった。「ママはそのうち事故で死ぬね、そうなっ たらあたしは孤児だよ」
娘のこうした誇張にはリディアは自分を責めるほかなかった。
学校に着くと裏の駐車スペースに車を停めた。ウェスタリー・アカデミーの豪華なスポーツ施設とちがい、アトランタのダウンタウンにあるブッカー・T・ワシントン・ハイス クールの体育館は一九二〇年代に建てられた煉瓦造りの建物で、一九一一年に大火事を出したトライアングル・シャツウェスト工場に似ていた。
リディアは駐車場をさっと見まわした。ロックを解除する前に必ずすることだ。
「帰りはベラに送ってもらう」ディーは後部座席からスポーツバッグをつかんだ。「じゃあまたあとで」
「わたしも行く」
ディーはぎょっとした顔をした。「だって、ママ——」
「トイレに行きたいの」
ディーは車から降りた。「ママっていっつもおしっこしてる」
「どうもありがとう」三十二時間の労働ときたるべき更年期障害のはざまにあって、牛の乳房のように膝のあいだに膀胱がぶらさがっていなくてよかったとリディアは思った。
後部座席からバッグを取ろうとうしろを向いた。その姿勢のままディーが建物のなかに入るのを見守る。そのとき運転席のドアが開く音がした。とっさにリディアは拳を握りしめて振り返った。「やめて!」
「リディア!」ペネロープ・ウォードが腕で頭を守っていた。「わたしよ!」
殴るのはもう遅いだろうかとリディアは思った。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。