ヤービは国籍にも民族にも縛られない、自由な存在
そういうとき、おばあちゃんはいつも微笑んで、
「アイ・ノウ」
知っていますよ、と応えるのだった。
『西の魔女が死んだ』より
ヤービという名前を見出したことで、物語の世界、詩のことばが展開されていき、『岸辺のヤービ』ができていった。ひとつの名前から生み出されたものは、一冊の本にすら収まりきらないほど膨大になる。ヤービのお話は、「マッドガイド・ウォーターシリーズ」として、これからも続巻が予定されている。
小さい生きものをめぐる話というのは、児童文学においては定番といっていい。いつの時代も小さい者の話が絶えないのはなぜなのだろう。
コロボックルやニルスのシリーズなど、たしかに小さい者の話はいろいろありますね。それらがいったい何なのかといえば、肉体性をともなわない、スピリチュアルなエネルギーのあらわれのような気がします。生命のエネルギーの根幹にあるものに、何らかのかたちを与えると、そうした小さい者の姿になる。
ヤービにもおそらく、そういう面があるのでしょう。ひとつおもしろいのは、ヤービが民族性みたいなものに捉われない、かなり原始的なかたちで出てきたこと。というのは、生き生きとしたスピリチュアルなエネルギーを体現する小さい者がどういう姿であるかは、それぞれの民族にとってけっこう重要なことだったりします。だからコロボックルだったら、日本神話の神を核にして、アイヌ風の衣装をまとった。ニルスの姿や物語の中身は、やっぱりスウェーデンの国土を強く反映している。多かれ少なかれ民族性をまとっているのですね。
それなのに、ヤービは民族性の枷みたいなものからちょっと自由になっている。これは、わたしが自由になれたというよりは、いまの人類の意識がそうなりつつあるんじゃないかとおもうのです。
ものごとの捉え方の変化が、このところ急速に起きているんじゃないか。そういう実感が、梨木さんにはあるという。約20年前、梨木さんは小説『西の魔女が死んだ』を発表した。西洋人のおばあちゃんと、孫の交流を描いた作品だった。そのときの批判の声には、「なんでおばあちゃんが西洋人の設定なんだ?」というのが多かった。洋の東西、国籍を否応なく意識してしまう感覚が、世の中にはあったということだ。
今回のヤービの物語は、マッドガイド・ウォーターが舞台。これは、おそらく日本ではなさそう。じゃあどこの国かと問われれば答えに窮してしまうけれど、特定の国や地域、民族の文化のもとに展開されるお話にはなっていない。いわば「非国籍」の物語。それでも、とくに「なぜ日本じゃないんだ?」という声は梨木さんのもとに届いてはいない。
この20年のあいだの意識の変化は、けっこう大きいんじゃないでしょうか。力の強い文化が他を圧倒するアメリカナイゼーションのようなものではなくて、ほんとうの意味で世界がグローバル化に向かっているのではという印象があります。そのための生みの苦しみがあちこちで起こっている。ヤービもそのひとつの例といえるのでは。ヤービのお話が、日本というくくりからも自由に出てきたというのは、うれしいことです。
小さい者たちのことがらを描く『岸辺のヤービ』は、ここではない場所でのお話であり、いってみればファンタジーの世界。けれど、刊行後の反響をみていると、どうやら大人も、いやむしろ大人のほうが、胸に響いたと感想を寄せる例が多い様子。
年齢を重ねた方が読んで、おもしろく感じてくださるとしたらうれしい。それはその人のなかの、永遠の少年・少女の部分が喜んだということでしょう? そこに届いたのなら何よりです。おもうんですけど、人はマトリョーシカ人形のように、小さい自分、そのまた小さい自分を内包しているんじゃないでしょうか。
その小さい自分、これはかつての自分と言ってもいいのでしょうけれど、そこが何らかの刺激によってビビッドに反応する。そういうことがなければ、わたしたちはほんとうの意味で生きているとはいえないんじゃないか。内包している自分がいつも生き生きしていられたらいいですよね。
人が死ぬって、不思議な感じだ。『裏庭』より
ヤービにかぎったことではない。梨木さんの作品は、表面的にはリアリズムに基づく大人の小説のかたちをとっていたとしても、そこに摩訶不思議なものごとがポンと起きたりする。それでも、読んでいて違和感を抱かせないのはすごいこと。
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