人間が自分で考えて行動しなくても良いように、この世界はどんどん自動化されていってるから。

洋子は新たな勤務地であるジュネーヴへ発つ前に、父親である映画監督イェルコ・ソリッチに会いに行く。
そこには娘を心配をする父親の姿があったー…。

「お前の意識の問題じゃない。一体、何が今日—昨日でも明日でもなく—お前をこの場所まで連れてきた? 何がお前を今ここに存在させている? もし今ここで誰かが銃を乱射したなら、問題はその事実じゃないのか? 《ヴェニスに死す》のアッシェンバッハにせよ、タッジオを追っているつもりで、本当は追われていたんだよ。」

「そこまで言うのなら、どの道わたしには、自分の運命を避けるべき手立てもないでしょう?」

 洋子は、打ち解けた笑みを失わないままの表情で父に反論した。

「お父さんの映画には、人生はどこまで運命的なのかって主題がずっとついて回ってるけど、今はどうなの? 人間の〈自由意志〉に関しては、やっぱり悲観的?」

 ソリッチは、ステーキを少し残したまま、ナプキンで口元を拭った。そして、しばらく考えてから洋子の顔を見据えたが、そういう仕草が、別々に暮らしたはずなのに、どうしてそんなに父と娘で似ているのかと、先日も長崎の母が呆れたように言っていた。

「自由意志というのは、未来に対しては無くてはならない希望だ。自分には、 何か出来たはずではなかったか 、、、、、、、、、、、、、、 と、人間は信じる必要がある。しかし、洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。 何か出来たはずではなかったか 、、、、、、、、、、、、、、 、と。運命論の方が、慰めになることもある。」

 洋子は、父の目が、深い眼窩の奥で、引き絞られるようにして力を帯びたのを認めた。そして、

「そうね。……よくわかる、その話は。現在はだから、過去と未来との矛盾そのものね。」

 と頷いた。父が念頭に置いているのは、凄惨な紛争を経験し、解体されたユーゴスラヴィアの歴史であるはずだったが、洋子の胸を咄嗟に過ぎったのは、もっと遙かに小さな、私的な記憶だった。

 彼女は、早苗から聞かされた蒔野との別れの真相を思った。それはなるほど、まったく仕方がなかったというわけではなかったのだった。避けるべき方法は、あとから思えば幾らでもあり、だからこそ、彼女は余計に苦しんでいた。必ずしも難しいことでもなかったのではないか? 蒔野と連絡を取りたかったし、取るべきだということは、わかりきっていた。にも拘らず、どうしてもそれが出来なかった。—しなかった。

 蒔野の気持ちを、何よりも尊重すべきだったのだと、これまでずっと自分に言い聞かせてきた。「洋子さんならきっと理解してくれる」と蒔野は言ったのだった。それ以上、彼に何を言わせるべきだっただろうか? それでも追い縋るべきだったとは思うものの、それが出来ない精神状態だったからこそ、診断名もつき、薬も飲んでいたのではなかったか。

 早苗の告白により、真相を知ってからは、しかし、何か出来たはずだったという思いが、彼女の心から平穏な諦念を奪ってしまっていた。それは、必ずしも不可抗力の運命ではなかったのではないか。……

「また新しい映画を撮りたいと思ってる。映画学校で教えるのも辞めて、時間が出来たからね。」

「ああ、……素晴らしいことね、それは。」

 と、洋子は眸を輝かせた。父の映画を最後に見たのは、もう何年前のことだろうか?

「けれども、脚本はなかなか進まない。—教科書的な話だが、悲劇について、古典悲劇が運命劇であるのに対して、近代の悲劇は性格劇だと言われるだろう?」

「ええ。」

「オイディプスが実の父を殺し、母を娶ってしまったのは、避けようのない運命だった。しかし、オテロの過失は、彼の激情的な性格に起因している。あんなに単細胞で、怒りっぽくなければ、ハンカチ一つでデズデモーナを殺すこともなかっただろう。勿論、実際にはもっと複雑だが、……」

「ええ、勿論。」

「だが、……人間は結局、もう一度、運命劇の時代に戻っているのではないかと近頃よく思う。“新しい運命劇”の時代なのかもしれない。私のような小説的な映画ではなくて、早くから叙事詩的な英雄物語を描いてきたハリウッドの方が、そういうことにはずっと敏感だ。《マトリックス》とか、色々ある。」

 洋子は、椅子の背に軽く体を預けて腕組みした。そして、具体例を二、三、思い浮かべて頷いた。

「リチャードとも、そういう話を随分としたのよ。グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確定性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、ただ、遅滞なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら。

—普段の生活だって、右に道を曲がっても、それが自分の意志だったのか、曲がりたくなるようにデザインされたカーヴだったからなのかは、わからない。善行にせよ、悪行にせよ、人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になるって。」

「お前はどう思う?」

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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