一故人

2015年に亡くなった人たち—それぞれの戦後70年

2015年(未年)も後わずかで、2016年(申年)が始まります。今年も各界の多くの方々が鬼籍に入りました。戦後70周年の2015年に世を去った方々を、その足跡とともに近藤正高さんが偲びます。


2015年も各方面で大きな足跡を残した人たちが亡くなった。本稿では、物故した著名人を、ここ1年に起こったできごとと関連づけたり、あるいは歴史のなかで位置づけたりしながら振り返ってみたい。

作家たちの戦争と戦後—阿川弘之、宮尾登美子、陳舜臣ほか

2015年は戦後70年の節目であった。作家・阿川弘之(8/3・94歳。以下、カッコ内の日付は命日、年齢は享年を示す)は海軍中尉として赴任先の中国・漢口(現・武漢市)で1945年8月15日を迎えた。もっとも、海軍受信所で諜報作業にあたっていた阿川は、すでにその5日前には傍受した米軍無線で日本の降伏を知っていた。故郷・広島への原爆投下も伝え聞いており、両親は死んだものと思って翌年3月に復員したが、幸いにも再会できた。志賀直哉門下に入り、作家修業を始めたのはその半年後のことである。

同じ中国大陸でも、満州と呼ばれた東北部にいた日本人は戦争末期、ソ連の侵攻などで過酷な体験を強いられた。宮尾登美子(2014年12/30・88歳)は18歳で結婚、夫の赴任先の満州へ生まれたばかりの娘を連れて渡る。しかし敗戦直後、暴動により住んでいた場所を追われ、1年半の難民生活を経てようやく帰国できた。このときの辛酸をなめた体験は後年、長編小説『朱夏』(1985年)として結実する。宮尾と同じく直木賞作家である船戸与一(4/22・71歳)も後半生、満州を題材に『満州国演義』(2007~15年)を書き続け、最終巻刊行直後に亡くなった。

陳舜臣(1/21・90歳)には、直木賞受賞作の短編「青玉獅子香炉」(1968年)をはじめ中国の歴史に取材した小説も多い。先祖は中国南東部の福建省出身で、祖父の代に台湾から来日したという。陳自身は神戸で生まれ育ったが、敗戦により台湾は日本領ではなくなったため、国籍が日本から中国に変わった。当時、母校の大阪外国語学校(現・大阪外大)で助手をしていた彼は、これにより国立大学での教授への道を閉ざされる。その後、家業の貿易商に従事するかたわら習作に励み、1961年に作家デビューした。日本国籍を取得したのは1990年である。

やはり直木賞作家の車谷長吉(5/17・69歳)は、中国の唐代の詩人・李賀(李長吉)から筆名をつけている。芥川賞・直木賞の創設から2015年で80周年を迎えた。芥川賞受賞作の「蟹」(1963年)をはじめ偏執的な感性を特色とした作品が目立つ河野多恵子(1/29・88歳)は、大庭みな子とともに女性として初めて同賞の選考委員を務めた。

赤瀬川隼(1/26・83歳)は、その3カ月前に亡くなった弟・赤瀬川原平(尾辻克彦)とともに兄弟でそれぞれ直木賞・芥川賞を受賞している唯一のケースだ。日本の美容師の草分けである吉行あぐり(1/5・107歳)は、長男の淳之介、次女の理恵と2人の芥川賞作家を育てたゴッドマザーでもあった。

揺れ動くアジア—鶴見俊輔、リー・クアンユー、金泳三ほか

2015年9月、安保関連法が成立した。法案審議中には、国会周辺をはじめ各地で反対デモも盛んに行なわれた。そのなかで「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が41年ぶりに再結集しデモを実施している。

べ平連はそもそも1965年にアメリカが当時の北ベトナムの爆撃(北爆)を開始したことに抗議して、哲学者・思想家の鶴見俊輔(7/20・93歳)が作家の小田実らと結成したものだ。吉川勇一(5/27・84歳)は、べ平連の2代目事務局長として74年の解散まで活動を支えた。また、鶴見の同志社大学での教え子だったルポライターの阿奈井文彦(3/7・76歳)は、べ平連で脱走米兵の援助に携わったほか、戦時下の南ベトナムに渡り取材も行なっている。

北爆の始まった1965年は、東南アジア各国で動乱があいついだ。シンガポールはその2年前にイギリス連邦内自治国からマレーシア連邦へ加入したが、住民の多数を占める華人(中国系住民)とマレー人との対立の激化から65年8月、分離独立を余儀なくされる。この決定をシンガポール初代首相のリー・クアンユー(3/23・91歳)は、涙ながらに国民に伝えた。

他方、インドネシアでは65年10月に軍事クーデターが起こり、スカルノ政権が崩壊する。このとき東南アジア研究のため同国で調査にあたっていたアメリカの政治学者、ベネディクト・アンダーソン(12/13・79歳)は、クーデターを転機にインドネシアのナショナリズムが変質していくさまを目の当たりにする。1983年刊の『想像の共同体』は、この体験から考察を重ねた末に書かれたものだ。

東南アジアにかぎらず、アジア地域には第二次大戦後、政情不安の続いた国が少なくない。金泳三(11/22・87歳)は、軍事政権の続いた韓国にあって野党政治家として民主化運動を指導した。民主化成立後、1990年代には大統領を務めている。トルコでは、スレイマン・デミレル(6/17・90歳)が60年代から90年代にかけて7次にわたり首相を務めたが、この間、80年には参謀総長のケナン・エヴレン(5/9・96歳)の起こした軍事クーデターにより政権を追われ、さらに政治活動を全面的に禁止されている。デミレルが政界に復帰したのは87年、その後93~2000年には大統領も務めた。

テロと戦争の記憶—ヘルムート・シュミット、塩川正十郎、ギュンター・グラスほか

2015年はIS(イスラム国)を名乗る中東の過激派組織によって世界各地でテロ事件があいついだ。もっとも、テロはいつの時代にもある。1970年代には先進各国でテロ事件が立て続けに起こった。

西ドイツ(当時)では、1975年から77年にかけてドイツ赤軍派が獄中のテロリストの釈放を要求して、政財官の要人誘拐、スウェーデンの西ドイツ大使館の占拠、ルフトハンザ航空機のハイジャックとあいついで事件を起こす。しかし当時の同国首相、ヘルムート・シュミット(11/10・96歳)は、大使館占拠事件以降、断固として犯人側の要求を拒否し続けた。

とりわけ、ルフトハンザ機のハイジャック事件の際、警察の特殊部隊を突入させ、人質を救出したことは、同じく77年に起こったダッカ日航機ハイジャック事件での日本政府の対応と比較されがちだ。当時の福田赳夫政権は、犯人の要求を呑み、身代金の支払いおよび超法規的措置として獄中の活動家の引き渡しを決めている。このとき内閣官房副長官として事件の対処にあたった塩川正十郎(9/19・93歳)は、最終的に政府の選んだ策とそれを支持した世論に強く憤慨した。後年、小泉純一郎政権の財務相時代に「塩爺」と呼ばれたイメージとはまた違う、塩川の激しい一面といえよう。

旧西ドイツの政治家では、リヒャルト・ヴァイツゼッカー(1/31・94歳)が大統領在任中の1985年、第二次世界大戦終結40年記念式で行なった演説も思い出される。このときヴァイツゼッカーは「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と、ナチスの跳梁を許したドイツ人自身の罪に言及した。

現代ドイツを代表する作家、ギュンター・グラス(4/13・87歳)は、1999年にノーベル文学賞を受賞したのち、2006年に自伝的小説『玉ねぎの皮をむきながら』で大戦末期に17歳でナチス親衛隊(SS)に入っていたことを告白し、物議をかもした。もちろん、SSだった過去はグラスにとって大きな恥であり、それはのちのちまで重荷として残り、軽くなることはないと作中で心情を吐露している。

ディスカバー・ジャパンの時代—野坂昭如、藤岡和賀夫、佐木隆三ほか

グラスの代表作『ブリキの太鼓』(1959年)は、3歳で成長の止まってしまった少年の視点から第二次大戦前後の混乱した時代が描かれる。グラスより3歳下、1930年生まれの野坂昭如(12/9・85歳)の直木賞受賞作のひとつ『火垂るの墓』(1967年)では、著者の分身と思しき少年が45年9月、敗戦1週間後に栄養失調で4歳にして亡くなった妹を追うように同じ症状で死ぬ。現実の野坂は戦後をしたたかに生き延び「焼け跡闇市派」を自称、1950年代に民間放送が始まると三木鶏郎の「冗談工房」に入り、CMソングや番組台本を書きまくった。

野坂がマスコミで活躍し始めたころ、イラストレーター・マンガ家の柳原良平(8/17・84歳)は壽屋(現・サントリー)宣伝部に勤め、同僚でのちに作家となる開高健や山口瞳らとともに広告界に新風を送った。1958年に柳原が生んだキャラクター・アンクルトリスはいまなおCMに登場し、マンガ家の小島功(4/14・87歳)が1974年に清水崑から引き継いだ黄桜酒造のかっぱとともに長きにわたって愛されている。

1961年のウイスキーの広告で、開高による名コピー「『人間』らしくやりたいナ」に添えられたイラストも柳原によるものだ。しかし高度経済成長期の日本では、「人間らしく」どころか馬車馬のように働く「モーレツ社員」が賛美された。そのなかにあって、企業からあらためて人間性回帰を訴えたのが、富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」キャンペーン(1970年)である。これは当時同社の販売本部長(のち社長・会長を歴任)だった小林陽太郎(9/5・82歳)が、電通のプロデューサー・藤岡和賀夫(7/13・87歳)の提案に賛同して実現した。

藤岡は同じく1970年、国鉄(現・JR)の一大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」も手がけている。旅を通して自己の再発見を謳ったこのキャンペーンにいざなわれ、古き良き風景の残る全国の古都・名所に若い観光客が詰めかけた。「ディスカバー・ジャパン」については、土着的なもの、前近代的なものに対する都市の優越感に依拠しているといった写真家・中平卓馬(9/1・77歳)の批判もあった。

中平卓馬はその直後、「写真は記録である」という考えに疑問を抱き、一時写真から遠ざかっている。きっかけは1971年、沖縄返還闘争における警官死亡事件で、ある新聞に載った現場写真を証拠に一人の青年が逮捕されたことだった。写真には「青年が警官をめった打ち」とのキャプションが付されていたが、実際には青年は襲われていた警官を助け出そうとしていたことがのちに判明する。一枚の写真が説明文ひとつでまったく逆の意味になることに、中平は大きな衝撃を受けたという。

作家の佐木隆三(10/31・78歳)が、直木賞を受賞した『復讐するは我にあり』(1975年)をはじめ犯罪小説を書き出したのも、沖縄返還闘争で警官殺害の容疑から逮捕されたことがきっかけだった。この誤認逮捕の経験から、佐木は犯罪に関心を抱くようになったという。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

283vawa あとでじっくり読む。 3年弱前 replyretweetfavorite

donkou 毎年恒例、この1年間に亡くなった著名人を回顧する記事が今年もケイクスに掲載されました。 3年弱前 replyretweetfavorite