「お願いだから、クレア」ヘレンがドアのほうに移動した。「その顔をなんとかしてちょうだい。どう見てもやましいところがありそうよ」
「わたしはなにもしてないわよ」不機嫌な口調で言い返した。
「ここはわたしに任せてちょうだい」ヘレンがドアを押し開けた。「なにか問題でも、おまわりさん?」低く、明瞭で——かなりいらついた——司書の声音で話しかける。
警官は片手を上げた。「下がってください」
「ここは私有地よ。令状はあるのかしら」
「すみません」クレアは母を押しのけて前に出た。母が警察嫌いなのはしかたがない。
「クレア・スコットです。ここはわたしの家です」
「IDを見せてもらっても?」
ヘレンが足を踏み鳴らした。「冗談でしょう? あなた、ほんとうに娘が夫を埋葬した日にこの子を逮捕しに来たの? パトカー三台引き連れて?」クレアのほうに手を振る。
「この子が犯罪者に見える?」
「お母さん、いいのよ」厳密に言えば自分が犯罪者であることはわざわざ指摘しなかった。保護観察期間であるため、警察は好きなだけ立ち入ることができる。クレアはバッグを開けて財布を探した。次の瞬間、蛇男に財布を盗られたことを思い出した。
再びあのタトゥーと金色の牙が脳裏に浮かんだ。蛇男の肌は白かった。警察署で刑事に伝えたとき驚いた点だ。裕福な白人が襲われるのは黒人かヒスパニックのギャングに決まっていると考えるのは人種差別的だろうか、それともジムでのエクササイズのときラップミュージックを聞きすぎたのだろうか。ポールの背中に突きつけられたのは実際はナイフだったのに、黒光りする銃だと思ったのは同じ思考回路によるものだろうか。ナイフだって本物には見えなかったが、それでも夫の命を奪ったのだ。
地面がぐらぐらしはじめた。振動が足元からだんだん上に伝わってくる。
「クレア?」ヘレンが声をかけた。
数年前、ナパに行ったとき地震に襲われた。クレアはベッドから投げだされ、その上にポールが覆いかぶさった。水道管が破裂しガラスが飛び散るなか、どうにか靴だけつかんで外に飛び出した。
「剪断補強が不十分なんだ」ポールは亀裂の走った混み合う道路に下着姿で立ち、そう言った。「新しい建築物だったら基礎免震ベアリングや、剪断力を低下させる耐震装置があるはずだ」
地震荷重について延々と話しつづけるポールの声を聞いているうちに、ようやく心が落ち着いてきた。
「クレア?」
はっと目を開けた。なぜこんなに近くに顔があるのだろうと思いながら母親を見上げた。
「あなた気を失っていたわ」
「まさか」クレアは否定したが、実際は自分の家の私道に仰向けに横たわっていた。さっきの女性警官がこちらを見下ろしている。彼女がどの虫に似ているか考えようとしたが、ただ働きすぎで疲れているようにしか見えなかった。
警官が口を開いた。「動かないでください、奥さん。十分で救急車が来ますから」
その言葉で、救急隊員がストレッチャーを持って路地に駆けつけたものの、ポールを診て一分もせずに首を振ったのを思いだした。
だれかほんとうに口にしただろうか、”亡くなりました”と。それとも自分が言ったのだろうか? その言葉が聞こえた気がした。感じとっただけかもしれない。だが、夫が人間から死体に変わるのを見届けたのはまちがいない。
クレアは母に声をかけた。「身体を起こしてくれる?」
「起きあがらないでください」警官が制した。
ヘレンは娘の身体を起こした。「おまわりさんが言ったことは聞こえた?」
「だって起こしてくれたのはお母さんじゃない」
「ちがうわ。だれかが強盗に入ろうとしたんですって」
「強盗?」意味がわからず、クレアは訊き返した。「どうして?」
「なにか盗みたかったんじゃないかしら」ヘレンは辛抱強い口調で言ったが、クレアは母が動揺しているのがわかった。「ケータリングの人が押し込み強盗と鉢合わせしたらしいわ」
押し込み強盗。母の口から出たその言葉は時代がかって聞こえた。
ヘレンは続けた。「もみ合いがあったらしいの。バーテンダーがひどいけがをしたそうよ」
「ティムが?」クレアは訊き返した。詳しい事実を知れば実際に起きたことだと理解できるかもしれないと思ったのだ。
ヘレンは首を振った。「名前は知らないけど」
クレアは自宅を見上げた。再び身体と心がばらばらになり、ポールのいない通夜を行ったり来たり漂っているような気がした。
そのとき蛇男の顔が浮かび、現実に引き戻された。
クレアは警官に尋ねた。「強盗って、いったいどんな?」
「アフリカ系アメリカ人の男三人です、中肉中背、二十代半ば。全員マスクと手袋を着用していました」
ヘレンは警察というものをあまり信用していなかった。「それだけわかっていれば、逮捕は時間の問題ね」
「お母さん」クレアは母をたしなめるように言った。
「連中はシルバーの最新型4ドア車に乗っていました」警官はベルトにさした警棒を握りしめた。「全州にその車を対象をするBOLOを出しています」
「お嬢さん、わたしにとってBOLOっていうのは派手なひもネクタイのことよ」ヘレンは再び完全な司書モードになって、クレアには向けられないいらだちをぶつけた。「申し訳ないけれど、英語をしゃべってくださる?」
ジニーが口を開いた。「ビー・オン・ザ・ルック・アウト、捜査指令のことでしょ?」にこにこと警官に笑いかける。「うちの居間にはカラーテレビがありますからね」
「いつまでも私道にすわっているわけにはいかないわ」クレアが言うと、ヘレンが腕をつかんで立ちあがらせてくれた。もしここにポールがいたらどうしていただろう? きっとこの場を仕切っていたはず。だが自分にはできない。立っているのがやっとなのだ。「強盗はなにか盗っていったんですか?」
「そうは思いませんが、刑事と一緒に家のなかを確認してもらいます」警官は土間のドア付近に立っている数人の男たちを指さした。みな刑事コロンボ風のトレンチコートを着こんでおり、ひとりは葉巻までくわえていた。「盗品目録を作成するためのチェックリストをお渡しします。保険会社に提出する際、完全な報告書が必要になりますので」
クレアはあっけにとられたあまり、思わず笑いだしそうになった。スミソニアン博物館のカタログづくりを頼まれたようなものだった。「これから人が来るんです。テーブルがセットされているかたしかめないと。ケータリングの——」
「奥さん」警官がさえぎった。「現場検証が終わるまでなかに入ることはできません」
クレアは拳を口に当てて、いまいましい”奥さん”呼ばわりはやめろと言いそうになるのをこらえた。
「奥さん?」警官がなおも言った。
クレアは拳を下ろした。私道の入口に車が停まった。灰色のメルセデス。ヘッドライトがついていて、黄色い”葬儀”の旗が窓から差しかけられている。もう一台のメルセデスもそのうしろにゆっくりと停まった。葬列がついに追いついたのだ。どうすればいい? もう一度倒れるのがいちばん簡単な解決法のような気がした。それからどうする? 救急車。病院。鎮痛剤。いずれは家に送り返されるだろう。そしてふたたび同じ場所に立って、刑事や目録や保険やその他ろくでもないことに対応するはめになる。全部ポールのせいだ。ポールはここにいるべきなのに。ここですべての面倒を見るべきなのに。それがポールの仕事だ。
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