プリティ・ガールズ

夫の葬儀

夫の遺体を埋葬しても、夫に会いたい気持ちは消えない。しかし一人きりになった彼女には、ゆっくりと悲しみに浸る間もなく……?



プリティ・ガールズ 上(ハーパーBOOKS)

 彼女はたったいま夫を埋葬した。

 クレアの頭のなかでその言葉が何度も繰り返された。現実に経験したことというよりは物語を語っているかのようだった。

—クレア・スコットはたったいま夫を埋葬した。

 物語には続きがあった。葬儀は長くかかったので、クレアは冷静な語り手の目で多くの感動的な場面を思い出していた。

—棺は暗い灰色で、ふたには一面に白いユリの花束があしらわれていた。重機によって棺が墓穴に下ろされたとき、湿った土の匂いが鼻をついた。クレアの膝から力が抜けた。彼女の祖母が背中をなでた。彼女の母親が腕を差しだした。クレアは首を振った。強いもののことを考えた。鉄。鋼。ポール。

 黒塗りのリムジンの後部座席にすわって初めて、夫にはもうに度と会えないのだと心の底から理解した。

 クレアは家に向かった—ふたりの家に、ふたりのものだった家に。じきにみなここにやってくる。車はカーブした私道に納まりきらず、公道にも駐車することになるだろう。献杯し、いろんな話が交わされるだろう。ポールは遺言書で通夜を望んでいたが、クレアは言葉の由来が気になってどうしても口にする気になれなかった。何度も自問した。ポールも目を覚ます(ウェイク)ということ? 航跡(ウェイク)というのは、船が通り過ぎたあとに水面に残る乱れた波の筋のこと?

 二番目のウェイクのほうが筋が通る気がした。静けさが乱され、波濤にとらわれる。深い悲しみに逆らって泳いでいる。憐れみのなかに沈みこんでいく。

 数多くの電話やカード、花束、ポールの名前で寄付が行われていた団体からの解除通知が届いた。米国がん協会、ポールはがんで死んだのではないけれど。

 殺人事件の被害者のための慈善団体はないのだろうか。これこそクレアが調べておくべきことだった。もう手遅れだろうか?

 あの恐ろしい夜から四日がたった。葬儀は終わった。何年も音信のなかった人たちがお悔やみを伝えてくれた。彼らは口をそろえてポールはいい人だった、いつでもクレアのそばにいると言ってくれた。

 お返しにクレアはうなずいた—警察署で、病院で、葬儀場で、墓地での儀式のときも—”そば”というのがどこなのかわからなかったが。

「どうやって持ちこたえているの?」彼らは尋ねた。「気分はどう?」

 解離。

 それがクレアの気持ちにいちばん近いものだった。この言葉で合っているかどうかiPadで調べた。

 肉体のない、または肉体から離れた存在。

 身体的なよりどころがない状態。

 ここでも二番目の定義のほうがぴんとくる。ポールはクレアの人生に重しを与えてくれ、世界につなぎとめてくれた。クレアはもともとあらゆることを自分の身にではなく、だれかほかの人の身に起きているように感じる傾向があった。

 この四日間、クレアはそうした解離感を強く覚えていた。蛇男に振り向けと言われた瞬間から。そして警察と葬儀社の人に最後にご遺体をご覧になりますかと訊かれたとき、”ご遺体”という言葉に血の気が引き、子どものように泣きじゃくった。腕のなかにいたポールを連れ去られて以来、殺された生気のない夫の姿を頭のなかから消し去ろうと努力してきたのだ。

 —クレア・スコットはもう一度夫に会いたかった。

 ご遺体に会いたいわけではなかった。

 窓の外を見る。アトランタのひどい渋滞のなか、車はのろのろとしか進まなかった。葬列はふたつ前の交差点で途切れていた。クレアたちのリムジンだけが先に進んでいる。ここは見知らぬ人でも道路脇に車を止めて葬列を優先させてくれる田舎のようにはいかない。バイクで先導する警察官のことも無視。車につけている”葬儀”という黄色い旗も無視だ。だがクレアのことだけは別で、みんなが後部座席に目を凝らし、自分の悲しみを覗き見しようとしている気がした。

 前回ストレッチリムジンに乗ったのはいつだったろう。たしか旅行でポールと空港に向かったときだ。いつものセダンではなく、贅沢をしたのだった。

「これからプロムに行くんだっけ?」ポールが冗談交じりに言った。

 ふたりはポールの建築会議のためにミュンヘンに向かうところだった。ポールは高級ホテルのケンピンスキーを予約していた。至福の六日間のあいだ、クレアはピールで何往復も泳ぎ、マッサージやフェイシャルケアを受け、ルームサービスを頼み、夫がドイツの医療サービスを受けているあいだに買い物にいそしむ中東から来た裕福な妻たちに交じって、ショッピングを楽しんだ。夕刻になるとポールも合流して夕食を食べたり、夜更けのマキシミリアン通りをそぞろ歩いたりした。

 一生懸命思い出せば、店じまいして暗くなったショーウィンドーの外を歩きながら彼の手を取ったときの感触がよみがえるかもしれない。

 もう彼の手を握ることはない。もうベッドに転がって彼の胸に頭をもたせかけることはない。クレアの嫌いなあのおぞましいベロアのショートパンツをはいて、朝食を食べに階段を下りてくることはない。土曜日ソファで彼がフットボールの試合を見ている横で本を読んだり、一緒に会社のディナーパーティやワインの試飲会、ゴルフのコンペに出かけることはない。たとえ出かけたとしても、一緒になって笑うポールがいなければなんの意味があるだろう?

 クレアは口を開けて息を吸った。密閉されたリムジンのなかで息が詰まりそうだった。窓を開け冷気を思いきり吸いこんだ。

「もうすぐ着くわ」母が言った。向かいにすわり、脇のコンソールには入っているアルコールのデカンターに手をかけている。震動でカチャカチャとガラスの触れあう音がひどく耳障りなのだ。

 祖母のジニーはコートのボタンを留めたが、寒いとはひと言も言わなかった。

 クレアは窓を閉めた。汗をかいていた。肺が震えているようだ。これから数時間のことが考えられない。百人以上の人が集まるだろう。事務所のパートナー、アダム・クインは通夜をのビジネスイベントに変えてしまった。下院議員、企業家たちとその若く美しい妻、ヘッジファンド・マネージャー、銀行家、レストラン経営者、不動産開発業者、そしてクレアが一度もあったことのない、はっきり言えばあいたくもないうぬぼれ屋たちがまもなく家のなかを歩きまわるのだ。

 ふたりの家を。

 自宅はアトランタ郊外のダンウッディにある。敷地は緩やかに傾斜していて、かつていちばん高い位置に建っていた裏庭にタイヤのブランコのあるコテージは、工事の初日ブルドーザーで取り壊した。ポールは基礎から家の設計を行った。すべての釘やねじの位置を把握し、どのワイヤーがどこにつながっているか、それがどんな役割を持っているか即答できた。

 クレアの貢献はラベル好きなポールにマーカーを手渡すことだった。モデムには”モデム”と書かれ、ルーターには”ルーター”と書かれている。水道栓には特大のラベルが使われた。すべての器具には取り付けられた日付が名称とともに記されている。

 冬を前に屋外のギャグ地を凍らせないようにする準備から、NASAの制御盤のようなAVシステムのトラブル解決の手順まで、それぞれにラミネート加工したチェックリストが存在していた。

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2015-12-02

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カリン・スローター

成功した夫と美貌に恵まれ、なに不自由ない生活を送っていたクレア。だが、ある日暴漢に夫を殺されたことから、彼女の人生は暗転する。葬儀中、自宅に強盗に入られたクレアは、刑事に加えFBI捜査官が事情聴取に現れたことを不審に思い、夫のパソコン...もっと読む

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