蒔野は、思いもかけない妻の告白に、呆然となった。

蒔野は洋子との共通の友人である是永との会合で、3年前の洋子との別れの日の違和感を思い出す。
そして、時期を同じくして早苗が蒔野にある告白をするー……。

 蒔野は、曖昧に頷いて、是永から視線を外して考えた。

「どうかしました?」

「ああ、……いや。」

 あの頃は、毎日のようにスカイプで会話を交わしていたはずだった。洋子はそれを、隠し続けていたのだろうか? それが、あの東京に来た時の態度の急変の理由だろうか?

 恩師の危篤には駆けつけるのに、自分の苦しみにはどうして気づいてくれないのかと。

 彼は、翌日の朝、洋子とメールでやりとりした時の不可解なメッセージを思い出した。とにかく、会おうと言った彼に対して、彼女は、「ごめんなさい。もうこれ以上、このやりとりを続けられない。」と、唐突に会話を打ち切ってしまったのだった。

 ひょっとすると、あの時も体調が悪かったのだろうか? それで、あんなに急いで長崎の実家に行ってしまったのか?

 しかし、それなら猶更、自分を頼ってほしかった。なぜ言ってくれなかったのか? 祖父江への付き添いを優先させようとしていたのだろうか?……

 武知だけではなかった。自分は、あれほどまでに愛していた洋子の苦しみにさえ気づくことがなかったのだと、蒔野は悔恨した。

 思い出が変質してゆくのを感じた。そして、洋子には詫びを言いたかった。

 早苗が蒔野にすべてを打ち明けた時には、こんな次第で、彼自身が既に、真相のかなり近いところにまで迫っていた。パリで独り苦しんでいた洋子が、かわいそうでならなかった。彼がどうしてもわからなかったのは、彼女がなぜ、自分に助けを求めなかったのかということだったが、彼はそのために、二人の愛そのものをも懐疑せねばならなかった。そして、もう随分と崩れやすくなってしまっている彼女の記憶に触れてみては、悲しげに問うてみるより他はなかった。


 洋子との別れの日から、三年以上の月日が経っていた。

 ある日、自宅で一緒に昼食を取り終えると、早苗は憔悴し、少し紅潮した面持ちで、蒔野に話がある、と切り出した。その深刻な様子から、蒔野は咄嗟に子供に何かあったのではないかと心配したが、早苗が最後に意を決したのは、その彼の反応のせいだった。

「祖父江先生が倒れた時のこと、覚えてる? 大雨の日で、タクシーの中にケータイを忘れて、わたしが取りに行って。……あの時ね、—」

 蒔野は、思いもかけない妻の告白に、呆然となった。途切れ途切れの内容に、時折疑問を挟んだが、しばらくすると、あの時何が起きていたのか、その全体がようやく把握された。しかも、洋子の体調は、その時、かなり悪かったはずだった。早苗はどうやら、そのことは知らないらしかったが。……

 洋子は、確かに救いを求めていたのだった。そして、自分はそれを、そんな愚にもつかない理由で、拒絶したことになっているのだった。おかしいとは思わなかったのだろうか? しかし、その後、すれ違ったまま続いてしまったやりとりを思い返して、彼はいよいよ堪らない気分になった。

 あまりにも馬鹿げていて、だからこそ一層、その取り返しのつかない過ちが胸に重たく響いた。

 洋子は、どれほど傷ついただろうか? しかし到頭、自分を一度も責めることなく、一方的に切り出された別れを、そのまま受け容れたのだった。蒔野はそして、今度こそ、それは彼女が、自分を愛していたからなのだということを疑わなかった。洋子がそういう人間だということが、彼にはよくわかる気がした。

 洋子の不可解な心変わりだけでなく、早苗の自分に対する献身も、ようやく腑に落ちた。そして、彼女の罪悪感を想像し、その埋め合わせのために、あれほどまでに身を尽くして働き続けていたその姿に同情的になった。精神的、経済的な支えだけでなく、日常生活の何もかもを彼女に負うていた二年半という時間。—それは、否定出来ない事実だった。

 蒔野の脳裏を、洋子の表情がちらついたが、しかし今は、それを掻き消そうとする早苗との二年間の結婚生活の方が鮮明な記憶だった。そして、早苗がどんなに必死でその嘘のメールを書き送ったかを手に取るように想像した。

 騙されていたはずなのに、蒔野は瞬時に、妻を憎むことが出来なかった。それほどまでには、既に深く妻を愛していた。そのことに、皮肉にも彼はこの瞬間、気づかせられたのだった。

「どうして、今になって告白を?」

 早苗は、洋子に会ったことを言おうとした。しかし、それを後回しにするかのように、口を衝いて出たのは、武知の死を知って以来、独りで考えてきたことだった。

 蒔野は、それに理解を示しつつも、どこか釈然としないものも感じた。

「来月出産っていうこの時期になれば、俺がもう、君と別れることはないと思ったんじゃないのか?」

 早苗は、目を瞠って咄嗟に首を振ったが、言葉は発せられなかった。

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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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