あなたにこの子の名前をつける資格があったんですか?」

突然の武知の訃報は、蒔野の心に衝撃と、深い悲しみを与えた。
そして一方で、早苗の心にも大きな動揺を感じていたー……。

 動機は決して単純ではなかっただろう。自分の把握していない事情もあるだろうが、それでも、自責の念からは逃れられなかった。そして、彼は、それを打ち明け、慰めを得る相手を今は持っていなかった。

 武知の急逝は、蒔野に深い精神的な打撃を与えたが、そのためにまた、ギターから遠ざかってしまうということはなかった。むしろ彼は、これまで躊躇していたリサイタルのオファーをようやく受け容れ、独りで舞台に立つための準備に取りかかった。

 そうした蒔野の奮起の一方で、この悲報は、早苗の心にも大きな動揺を齎していた。

 彼女は、蒔野と武知とのホテルでの会話を知らなかったので、その死を文字通り、「事故」だと受け取っていた。蒔野も、その 誤解 、、 を訂正しなかった。そして、そのために、どこか高いところから、自分の存在に冷たくしたたってくるような不安を覚え、思い悩むようになった。

 あんなに正直で善良な人が、こんなにも早くその生を取り上げられてしまう一方で、自分は何事もなく、平穏な生を許されている。自分の犯したような酷い罪を、武知はきっと、一度も犯したことがないだろう。にも拘らず、自分はその報いどころか、なぜか奇跡のように願いが叶って、蒔野の愛だけでなく、今やその子供までをも授かっている。

 早苗は、その おかしさ 、、、、 の中に生きていた。

 運命とは、幸福であろうと、不幸であろうと、結局のところ、「なぜか?」と問われるべき何かである。そして、答えのわからぬ当人は、いずれにせよ、自分がそれに 値する 、、、 からなのだろうかと考えぬわけにはいかなかった。

 結婚後、早苗に対して、蒔野は飽くまで優しかった。深く信頼していて、時折、感謝が足りないのではと不安になったように、濃やかな気づかいを見せた。マネージャー時代には見たことのなかった顔だが、なぜか、あの頃の方が、彼の態度は自然だったような気がした。洋子との関係が深まっていた時期には疎まれもしたが、それもまた本心であるに違いなかった。今は時々、彼の心がわからなくなることがあった。そして、ひょっとすると、自分は愛されてはいないのではあるまいかと想像して恐くなった。

 お腹の子供は女の子だと告げられていた。逆子でもなく、今のところ、経過は順調だった。

 早苗は、その生を祝福されていた。出産が近づくにつれ、身の回りには、新しい命をこの世界に迎え入れるための様々な準備が整っていった。バスタオル、肌着、衣服、哺乳瓶、おむつ、おもちゃ、ベビーベッド、ベビーカー、抱っこ紐、チャイルドシート。……生クリームのような甘い白や、パステルカラーのピンク色が、日常を端から少しずつ染めていった。

 蒔野も、埋もれるほどのCDに囲まれて生活しているにも拘らず、わざわざ幼児用の音楽CDを買ってきたり、床で寝転んで遊ぶためのマットを、人から譲ってもらってきたりした。

 しかし、そのすべての幸福が、 おかしさ 、、、、 の中で起きているのだった。

 子供の名前は、男であれば蒔野が、女であれば早苗が考えることになっていたので、彼女にはその大役が一つ課せられていた。そして、その名前をなかなか思いつかないという、ありきたりな、胸の躍るような悩みが、彼女の場合、なぜか唐突に、あの罪の意識と結び合ってしまい、不穏な焦燥を掻き立てていた。

 子供の名づけ方の本を三冊買い、女子だけでなく、男子の名前にもすべて目を通したが、どこにも、自分たちの子供の名前はなかった。何らかの事情で誤記されているのかもしれないが、ひょっとするとこれかしらというような近い名前さえ見当たらなかった。

 それがまるで、入園式や入学式の受付で、思いもかけない名簿漏れに遭った時のような不安を早苗に与えた。心配する子供の様子が、胎内から伝わってきた。それはまったく、親の責任に違いなかった。受付の担当者は、首を傾げてこう言いそうだった。

「おかしいですね、……あなたがつけた名前、間違ってるんじゃないですか? 本当に、あなたにこの子の名前をつける資格があったんですか?」

 いかにも奇妙な不安だったが、しかし早苗には、自分の周りを取り囲んでいるどんな幸福のしるしよりも、自分が子供の名前の受け取りを謝絶されていることの方が、現実的であるように感じられた。誰も気づかなかったが、それがあの罪の報いなのではあるまいか。

 数こそ少ないが、出産時の妊婦の死亡例がないわけではない。もしこのまま命を落とすようなことになれば、自分は、救い難く恥知らずな人間として、一生を終えることになってしまう。それを帳消しにするほどの善行を何も出来ないまま。—本当にそれで良いのだろうか? それで本当に、蒔野の人生の魅力的な脇役なのだろうか。……

 早苗は、洋子に対して口にした「正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。わたしの人生の目的は、夫なんです!」という言葉を、戸惑いがちに振り返った。明らかに、それは言い過ぎで、そんなことを、常日頃から考えていたわけではなく、洋子に問い詰められて、咄嗟に口にしたに過ぎなかった。

 そう、洋子は早苗にとって、いつでも深く問いかけてくる存在だった。何を? 自分という人間そのものについてを。彼女を意識する度に、早苗は、胸を押さえつけられるような劣等感に苦しんだ。実際に洋子と会話をしたのは、四年前の一度きりで、その時彼女は、寧ろこちらの無理解に対して、優しく譲歩さえしていたはずだった。

 にも拘らず、早苗の心の中で、洋子の記憶は、水晶の欠片のように無慈悲なまでに透徹していた。そして、その光に照らされると、彼女は酷く焦って、決まって本当の自分よりも悪く振る舞ってしまうのだった。

 チケット売り場に並ぶ洋子の後ろ姿を目にした時、早苗は、それが誰であるのかが瞬時にわかった。そして、ためらう間もなく、振り返った彼女に声を掛けてしまっていた。

 蒔野よりも二歳年上であるので、もう四十四歳のはずだったが、洋子の風貌は、彼女が最後に新宿駅の南口で見かけた時と変わらず美しく、得も言われぬ存在感を放っていた。

 会話の間中、早苗はとにかく必死だった。どんな話の流れからか、結局は彼女に、蒔野を奪われてしまうのではないかという気さえした。

 真相を聞かされた洋子の悲愴な面持ちを見つめながら、改めてつくづく、なんてきれいな人なんだろうと思ったが、その彼女が、激昂するか、泣き出すかするのを、恐れつつ期待していないわけではなかった。

 しかし、決してそうはならなかった。洋子は最後まで、微塵も取り乱すことなく、ただ深い憂愁を湛えた目でこちらを見据えていたが、それはほとんど、イエスの前に座るマリアが、マルタを見上げるような憐れみの眼差しと感じられた。

「それで、……あなたは今、幸せなの?」

 と洋子は問うた。自分が今、何よりも訊かれたくなかったそのことを。—本当にそう尋ねられただろうかと、早苗はぼんやりと振り返った。まるで、自分の心の声が、記憶の中の彼女に入り交じってしまったかのようだった。

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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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