その言葉には、自分が知っている以外の、何か他の意味があっただろうかという風に。

蒔野とのコンサートの後、引退を決めた武知。
蒔野は彼の決断を受け入れた。しかし、数ヶ月後に届いたのは思わぬ知らせだったー……。

「でも、コンクールで演奏聴いて、度肝を抜かれちゃって。そのあと、蒔ちゃんは、パリ国際でも優勝して、どんどん活躍していって。……」

 武知は、笑顔の名残を残したまま、頬を強張らせて蒔野を見つめた。蒔野は、経験的にその一瞬の間を知っているような気がした。

「僕はずっと、蒔ちゃんのことが、本当に嫌いだったんだ。とにかく、……嫌いっていうか、存在自体が耐えられないっていうか。もうなんか、ある日、急に死んだりしないかなとか、消えていなくなってほしいとか、……思ってた。蒔ちゃんのこと、意識するだけで胸が苦しくなって、……嫉妬だよね。でも、本当に辛いんだよ、それは。才能自体もそうだし、その才能をまた世間が愛しているっていうことも。」

 蒔野は、浴衣の裾を気にするふりをして視線を逸らすと、ぎこちなく微笑んで頷いた。そうした不意打ちのような告白を、実のところ彼は、これまでの人生でも、もう何度となく経験していた。

「だから、蒔ちゃんの代役として、台湾のコンサートの話が来た時には、複雑な気分だった。蒔ちゃんが、ギターが弾けなくなってるっていうのは耳にしてたし、……喜んでたわけじゃないけど、何て言うのかなァ、ほっとしてたっていうか。……卑屈だよね。」

「いや、……いいよ、そこまで言わなくても。」

「だけど、デュオに誘ってもらえたのは、本当に嬉しかったんだ。一緒にやってて、毎日、やっぱり、すごいなぁって感動してたし。蒔ちゃんが、ギターっていう楽器にモテるのが、よくわかったよ。」

「モテる?」

「同じギターでも、僕が弾いてる時と、蒔ちゃんが弾いてる時とでは、なんか、楽器の態度が全然違うんだよなあ。」

 武知は、おかしそうに笑った。そして、

「弾けない間の苦しさも、改めてわかったしね。」

 と言った。

 蒔野は、せめて穏やかな表情を保ちながら、武知の言葉を辛い思いで聴いていた。そして、この会話の辿り着く先を探っていた。

「年齢的な問題もあるよ。俺も、武知君も。—比べるのもおこがましいけど、ジョン・ウィリアムスのスカイだって、四十前後だからね。巨匠なをもて往生す、いはんや凡人をやだよ。」

「そう? スカイ、僕は好きだけどなあ。」

「俺は、駄目なんだ。でも、わかるよ、ああいうことしたくなるのは。……俺もギターをスモールマンにしてみたりとか、しばらく迷走してたけど、弾かない時間のお陰で、自分の演奏を根本から見直せたし、必要なプロセスだったと思うようにしてる、今は。武知君だって、何年かしたら、心境も変わってるかもしれないよ。」

 武知は、「……そうだね、」と、同意するように笑った。

 それから二人は、一緒にエレベーターに乗って、それぞれの部屋に戻った。

 別れ際には握手をしたが、蒔野にとっては、翌日、東京駅で交わした最後の握手よりも、こちらの方が強く記憶に残ることになった。

     *

 蒔野はその日、南青山のブルーノートで催されたベルギー人のテルミン奏者のコンサートに、ゲスト参加していた。共演者は他にもいて、蒔野は、ラフマニノフやラヴェル、ヴィラ=ロボスらのヴォカリーズ作品が演奏される場面で伴奏を務めた。グローブがプッシュしている美男の演奏者で、興味本位で軽く引き受け、それなりに楽しんだ、というような手応えだった。

 二度のステージを終え、一杯だけ付き合って、帰宅したのは深夜だった。出産予定日を来月に控え、早苗もこのところは早い就寝だったが、この日に限ってはまだ起きていて、リヴィングのソファに独り座っていた。どこか、ぼんやりとした様子で、目許には泣いたようなあとがあった。

 蒔野は、異変に気づいて、「どうした?」と楽器を置いて理由を尋ねた。

 早苗は黙って、葉書を一枚、彼に差し出した。手が震えていた。蒔野は立ったままそれを受け取ると、文面に目を通して、「……は?」と腹を立てたかのように声を上げた。

 ギタリストの武知文昭の訃報だった。

 武知が亡くなったのは、二週間も前のことらしく、郡山での最後の共演から丁度二カ月後だった。

「びっくりして、お悔やみの電話をかけてみたら、お母様が出られて。—事故で亡くなったって。」

「事故?……何の?」

「ただ、事故って。」

 蒔野は、もう一度その葉書を読み返し、念のために表も確認して、またしばらく文中の「他界」という文字を見つめていた。その言葉には、自分が知っている以外の、何か他の意味があっただろうかという風に。葬儀は近親者のみで済ませたとある。そして、ようやくすべてを理解し、ただ黙って頷いて、葉書を早苗に返した。

「お線香上げるだけでもと思って、先方のご都合を伺ったんだけど、今はまだ気持ちの整理がつかないからって、遠慮されて。—わたし、お留守番するから、一人で行ってくる?」

「いや、……いいよ。」

 早苗は、蒔野のそのつれないような返事に怪訝そうな顔をした。

「お母様、すごくお辛そうだったから、聡史さんが行ってあげれば きっと、……」

「行くけど、今は、……向こうがそう言うなら、そっとしておいた方が良いんだよ。」

 蒔野はそう言って、楽器を置きに二階の練習部屋に退がった。そして、ソファに腰を下ろすと、項垂れて額に手を宛てがった。

「事故」ではないのだろうと、蒔野は武知の母親の心中を思いやった。そして、磐梯熱海のホテルで、最後に交わした長い会話のことを思い返すと、涙が溢れ出してきた。

 もっと言うべきことがあったのではなかったろうか? 演奏活動に区切りをつけたいと言った時、理解を示すよりも、引き留め、励ますべきだったのではないだろうか。或いは、共演中の自分の態度も悪かったのか。なぜ、気づかなかったのだろう? なぜ、自分には相談してくれなかったのだろう?……

 知らぬ間に、武知がもう存在していない世界を、二週間ほど生きていた。酷く混乱していたが、蒔野は自分が、ようやく上向きかけていた人生から、手痛いしっぺ返しを喰らったような心地がしていた。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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