早速、「覚醒」してきた。今回は「NASA技術者」としてではなく、いちファン…いや、いち大ファンとして、映画の感想を書きたいと思う。(ネタバレはありません!)
とても面白い映画だったと思う。銀河帝国興亡を描く壮大な叙事詩に、親子の愛と葛藤など家族の物語を埋め込むという、シリーズを通してのテーマはしっかりと受け継がれていた。悪役はいまいち線が細いと感じたが、女性主人公レイのキャラクターは力強く魅力的だった。彼女の目には深い孤独と強い意志が対立することなく同居している。それがこのキャラクターに美しさを与える。演じるのはデイジー・リドリーというほとんど無名の女優だが、良いキャスティングだったと思う。ライトセーバーによるチャンバラや、小さな戦闘機で巨艦に挑むといったエンターテイメント性も過去の作品に劣らない。”I have a bad feeling about this…”(なんだかいやな予感がする・・・)と言ったあとに必ずトラブルが起きるといった、ファンにはおなじみのお約束もちゃんと守られている。
だが、何か小さな物足りなさが残った。もちろん、名作中の名作であるエピソード4から6までと比較するのは酷であることは分かっている。「君はアインシュタインに比べて頭が悪いね」と言うようなものだ。とはいえファンにとっては4から6こそが「正典」である。比べるのは致し方ない。では、なぜ物足りないと感じたのか。
理由のひとつは、世界観の横への広がりの不足だと思う。スター・ウォーズには世界がある。エピソード1から6では、ストーリーとは直接的には関係ない、銀河帝国のひとつひとつの惑星の歴史、文化、言語、風俗や、主役のみならず端役の出自、キャラクター設定まで、あらゆる方位、あらゆるスケールにおいて、世界が精緻に作り上げられている。それらは直接的に説明されることはないが、まるでビルとビルの間から遠くの山がちらりと見えるように、会話の端々やちょっとしたカットに壮大な世界の一端が垣間見られる。それこそがスター・ウォーズの魅力だと僕は思うのだ。
たとえばエピソード4で、主人公ルーク・スカイウォーカーと、後にその師となるオビ=ワン・ケノービがはじめて会うシーン。会話の一端に「クローン大戦」という言葉が漏れ、それが歴史の転換点となった戦争であったことが示唆される。それ以上のことは何も説明されないし、エピソード4のストーリーとは一切なにも関係ない。しかしこの一言によって、エピソード4で語られるストーリーが、壮大なサーガの一端であることが観客に印象付けられる。(25年後に製作されたエピソード2に、はじめてクローン大戦が描かれることになる。)
その少し前に、ルークが「双子の夕日」を眺める有名なシーンがある。彼の出身星、タトゥイーンには太陽が二つあるのである。この描写もストーリーには一切関係がない。しかし、これによりタトゥイーンの辺鄙さが印象付けられるとともに、辺鄙な田舎をはやく出て大きな宇宙で活躍したいとはやるルークの心をうまく描写しているのである。
ストーリーを一本の道に例えてみよう。多くの小説や映画は、その道に沿った細長い部分の風景しか描かない。道の両側にある建物だけが世界であり、その外は空白か、壁に遠景の写真を貼る程度である。それだけでも十分にストーリーを語れるから何の問題もない。しかし今までのスター・ウォーズは、道からは直接見えない遠くの山や川まで、世界をまるまるひとつ造りあげていた。そしてその世界の遠景が、ビルの窓に映ったり、ビルとビルの間からちらりとのぞいたりする瞬間がある。そんなとき観客は、自分がストーリーのために造られたセットの中に置かれているのではなく、ひとつの完成された世界の中に置かれていることを実感するのである。
今回のエピソード7が世界構築を怠っていたわけではない。しかし、銀河帝国崩壊後に復活した共和国がどのような国なのか、ファースト・オーダーとはいかにして生まれたのか、また今回新たに登場するジャクーやタコダナはいかなる惑星で、どんな民族が住み、どんな文化があって、どんな言葉を話すのかなどを、僕はもっと知りたかった。わざわざ説明する必要はない。しかし、観客が想像を巡らすためのヒントがもう少しあったらよかったな、というのが僕の所感である。
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