身重の早苗は、先に部屋に戻った。蒔野はそれから、グローブの野田らと、ホテルのバーで一時間ほど仕事の話をして、深夜二時までだという館内の温泉に慌てて浸かりに行った。
広い大浴場には、彼の他には、一人しか客がいなかった。谷間の温泉町なので、風呂は鬱蒼と木々が生い茂る山の斜面を向いている。蒔野は、露天風呂で少し長湯をして、その静寂に浸った。穏やかに酔いが回っていたお陰で、その間、何も考えずに済んだ。
浴衣を着て部屋に戻る途中で、蒔野は、照明の落ちた廊下の隅のマッサージ・チェアに、武知が独りでぽつんと座っているのに気がついた。ペットボトルの水を二本買うと、蒔野は、彼の隣に空いている同種のマッサージ・チェアに腰を下ろした。
武知は、ああ、と顔を上げた。髪はもう乾いているので、大分前に風呂から上がったのだろう。人懐っこい笑みを口元に過ぎらせた。
「ありがとう。丁度、のどが渇いてて。」
「どうこれ? 気持ちいい?」
「うん、なんか、すごく進化してるね。頭の先から足の先まで。蒔ちゃんは、体のメンテナンスに気を遣ってるから、やらないのかな、こういうのは?」
「いや、まァ、これくらいなら。……一遍、ヘンな整体にかかったらさ、次の日、腰が立たなくなっちゃって。整体も馬鹿に出来ないよ。たったあれだけのことで、人を動けなくさせられるんだから。」
「もみ返し?」
「そういう類いだろうけど、もっと、酷いやつ。」
「からだは、わからないね。」
「わからない、本当に。俺はそのせいで、一年半も棒に振ったから。」
蒔野は、革張りの椅子に包み込まれるようにして深く腰掛け、リクライニングを倒した。火照ったからだに、その革の冷たさが心地良かった。
「〈背筋伸ばしコース〉くらいならいいかな?」
十分間で百円だった。水を打ったような館内に、その作動音が鳴り響いた。武知は隣で、体を起こして水を飲んでいた。
「おー、気持ちいいね。」
「蒔ちゃんは、あの《幸福の硬貨》の監督の娘さんとは、最近会ってないの?」
蒔野は、目を開いて天井を見つめると、視線だけを武知の方に向けた。
「——なんで?」
「いや、この前、元ジュピターの是永さんがコンサートを聴きに来てくれて、僕が《幸福の硬貨》のテーマを弾いたから、その人の話になって。洋子さんだっけ?」
「そう、……今はもう連絡を取ってないけど、どうしてるって?」
「結婚して、ニューヨークにいるみたい。ケンちゃんっていう男の子が一人いるんだって。」
「……子供がいるんだね。」
「みたいだよ。是永さんも、しばらくご無沙汰してるって言ってたけど。蒔ちゃん、一頃会うとよくその洋子さんの話してたから。」
「してたかな?」
「してたよ、いつも。そんな人、いるのかなっていうくらい、褒めちぎってたよ。」
蒔野は、自嘲気味に笑って、営業を終えてひっそりとしているゲーム・コーナーを見るともなしに眺めていた。
「ま、確かにね。なかなかいないよ、ああいう人は。……疎遠になっちゃったけど。」
マッサージ・チェアが終わって静かになると、蒔野は椅子の背を戻して水を飲んだ。
武知は、是永から何かを聞いている様子だったが、あまり話したがらない蒔野を気遣うように話を変えてしまった。
「それにしても、今回のツアーは楽しかったなぁ。もう終わると思うと寂しいね。」
「また、やろうよ。俺も楽しかったし。」
蒔野は、笑顔で同意した。——が、武知はなぜか、すぐには返事をしなかった。
「いや、……実は今日、みんなの前で言おうかどうか迷ってたんだけど、僕は、演奏活動には、これでケジメをつけようと思ってて。」
蒔野は、体ごと武知の方を向いた。
「どういうこと?」
「うちはオヤジが山形の仏壇職人で、兄貴が後を継ぐはずだったんだけど、なんか、色々あって、継がなくなっちゃったんだよね。それで、戻ってきてほしいって前々から言われてて。」
「仏壇職人? へぇ、……あれもすごい世界だろうね。細かいし、そもそも、宗教的なものだし。けど、そんな技術、四十過ぎで身につけられるの?」
「子供の頃から、手伝ったりはしてたんだよ。ギターも好きだけど、あっちも好きだし、本格的にやろうかなと思って。」
蒔野は、両親が相次いで他界し、実家を手放した時に、仏壇の処置に困ったことを思い出した。結局、捨てはしなかったが、今は自宅の練習部屋のクローゼットに仕舞い込んだままで、もう随分と長い間、扉を開いていない。両親のことを思い出す時には、写真で十分だった。
音楽家も難儀な時代だが、仏壇職人こそ苦労するんじゃないかと蒔野は思ったが、それは敢えて言わなかった。そして、武知の決断を思いやった。
「兼業でもいいんじゃない? いきなり止めなくても。」
「教室くらいはやってもいいけど、爪も伸ばせないしね。なかなか、思い切れなかったんだけど、最後にこのツアーでいい思いをさせてもらって、踏ん切りがついたんだ。」
武知は、未練のあるらしい表情で右手の爪を見ながら言った。そして、
「最後に蒔ちゃんと演奏出来て良かったよ。なんか、初めて東京国際コンクールで会った時のこととか、今日は舞台で思い出しちゃって。」
「ああ、あの時だね。」
「祖父江先生が、天才少年がいるっていつも蒔ちゃんのこと話してたよ。中学生なのに、もうソルを全曲弾いてるとか。」
「けど、だって、ソルは作品六十三までしかないんだから。」
「だけど、中学生だよ? いないよ、そんな子なかなか。」
蒔野は肩を窄めて苦笑した。
「まァ、俺は岡山の田舎の出だからね。……
どんなに地元で褒められても、東京に行ったら、もっとすごい人がいるに違いないって思ってたし、況してや、スペイン人とかフランス人とかのギタリストなら、誰でも当然のように知ってることで、俺の全然知らないことがあるんじゃないかって、ずっと不安だったから。うまくなりたいってだけじゃなくて一種の強迫観念で練習してたところもあるかな。……」
武知は、蒔野をつくづく見つめながら、感じ入ったように聞いていた。
「僕は、そこまで思えなかったんだよね。そこまでは、結局、やらなかった。……蒔ちゃんには頭が下がるよ。」
「いや、だけどさ、いざパリに留学してみたら、エコール・ノルマルの学生だって、案外、ソル全部なんて弾いたことがないとか、平気で言うからさ、ぽかんとなっちゃって。祖父江先生に騙されてたのかな。……あとはさ、やっぱり、ギターっていう楽器の問題もあるじゃない? どれだけ練習しても、ピアニストからしてみれば、たったそれだけ?ってことなのかな、とか。」
「今でも思うよ、それは。——それで、そうそう、最初に見かけた時は、みんなコンクールの本番前で、必死に楽譜を見直したりしてるのに、蒔ちゃん独りだけ、小説読んでたんだよ! カルペンティエルの《失われた足跡》。」
「そうそう。よく覚えてるねぇ?」
「そのあと僕も買ったんだよ、あの本。けど、読み通せなかった。それでますます、蒔ちゃんに恐れ入って。」
「まァ、難儀な本だよ。……あれも、祖父江先生が、ギタリストだからって、ギターばっかり弾いてちゃだめだ、ブローウェルやヴィラ=ロボスがどういう国の人なのか、ちゃんとその背景も知らないといけないって言うからさ。地元の一番大きな本屋に行って、ブローウェルの祖国のキューバの小説だっていうから買ったんだよ。」
「祖父江先生は、僕にはそういうことを言わなかったなァ。——でも、あの時は、いやな感じだったよー。」
蒔野は苦笑して、
「そういう作戦だったんだよ。」
と言った。武知は一瞬、本気にしかけたが、冗談とわかったようだった。
(つづく)
平野啓一郎・著 石井正信・画
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