時間はそれから5年後の、西暦2015年に飛ぶ。
「お昼ごはん、食べないんですか?」
僕は投げかけられたその質問に、「はい」とだけ答えた。
大阪は天王寺駅にある高層ビル「あべのハルカス」のバイトの休憩室は、58階にある。僕がやっていた仕事は、あべのハルカスの59階にある、展望台のショップスタッフだった。
ほとんどのスタッフは、休憩時間にそこで昼飯を食う。僕は昼飯や飲み物を買う金すらなくて、来月までの通勤電車代、それだけで僕の全財産は、消えるような有り様だった。
週5で8時間、毎日働いていると、自分が何者なのかすら、わからなくなってしまいそうだった。
まったくやりたくないことに、一日の大半を奪われる。
でもそうやってフリーター生活を送っている人はたくさんいるはずだ。なぜ人はこうまでして、生きることにしがみつけるんだろう。僕はどうして……
「お腹、空かないんですか?」
聞かれた質問に、僕は再び「はい」と答えた。
実際は空かないどころか、お腹と背中がくっついて、この世から消えてしまいそうだった。
バイトの合間に、与えられた休憩時間は1時間。
空腹と退屈をまぎらわすため、紙とペンを取り出した僕は、カイブツを外に引きずり出した。
「何、書いてるんですか?」
僕は再び、笑いに狂い、発狂し、狂死しようと試みていた。
通勤電車の中。バイトの休憩室。帰りの電車の中。僕とカイブツの殺し合い。
「何、書いてるんですか?」
その質問に、僕はなんて答えるべきだったんだろう?
何も答えられずに顔を上げると、その人は、頭がおかしい人間を見るような表情で、こちらを見ていた。
僕はこんな表情で、見られなきゃならないような人間になってしまったんだな。
目線をずらすと、その人の後ろに、大きな鏡があるのが見えて、そこに映った自分の顔が、余りにもおぞましくて、戦慄した。
続けてきた努力、費やしてきた時間、すべてが絶望に変わった夜を、何度も通り過ぎ、鏡に映った自分の顔が、いつの間にかホセ・メンドーサと戦っている時の、死ぬ寸前の矢吹ジョーと、同じ表情になっていた。
それはバイトを辞める直前に見た、最後の記憶。
僕は陰でみなから、イカれていると、噂されていたらしい。
笑いに狂い続けたけれど、結局、僕は、発狂することも、狂死もすることもなかった。
そんなことは最初から出来なかったんだとようやく気づき、諦めた頃に、僕はなる予定がなかった27歳になった。
レッドカードを何十枚も出されているのに、一向に退場させてもらえず、ずっと試合に出され続けているサッカー選手になった気分だった。
「たくさんの人を笑わせられて幸せ」
ささやかも知れないが、ケータイ大喜利から始まった道のりはいつも、本気でそう考えて生きてきた。
だけど、そんな言葉は綺麗事だった。
僕は、死にたいと思っていた。
10年以上、人を笑わせることだけを考え続けて、生きて来た結果。
僕は、死にたいと思っていた。
◆
難波の繁華街を歩きながら、死に際を見せない猫のように、このまま静かにこの世界から、退場しようと思った。
生きることも、死ぬことも、大差ないことで、ただ腐り果てたこの世界にいる時間が、長いか、短いか、それだけの違いでしかないように思えた。
悲しむ人なんて、片手で数える程度しかいないから、消えたとしても、なんの問題もないと思った。
ただこの世から消える前に、僕は最後に、女性を抱いてみたいと思った。
27年間の人生で、僕は一度も女性を抱いたことがなかった。
最後の思い出に、一度だけでも女性を抱いてみたかった。
歩いてたどり着いた道頓堀の先、歓楽街の奥の薄汚れた路地で中国人の客引きが話しかけてきた。
「マッサージ、30分3000円ヨー」
僕はその客引きに、本番をさせてほしいと頼んだ。
「財布の中のお金を全部あげるから」と、全財産8千円を差し出して。
「仕方ナイネー。本当は1万5千円ヨー」とあきれられながら、連れて行かれたのは、簡素な雑居ビルの一室。
カーテンで仕切られた中に、ベッドがぽつんと置かれているだけの殺風景な部屋だった。
中国人にうながされるまま、服を脱ぎそのベッドに横になっていると、40歳くらいの中国人が入って来た。
「サア、ヤルヨーヤルヨー」と言いながら、服を脱いだ中国人のお腹には、大きな花のタトゥーが入っていた。
愚にもつかない、しかし永遠に思える30分が経過した。
それが初体験だったこと、完全に酒に酔っていたこと、相手がサバサバし過ぎであること、どう見ても40代であること、相手のお腹に花のタトゥーがあること、……など理由を考えればキリがない。
要するに完全に萎縮してしまい、まったくアソコが立たなかった。
いくら手で触ってもらっても、ずっとフニャフニャのままだった。
そのまま何もできずに時間が終わり、童貞喪失は未遂に終わり、金だけが消え、街に放り出された。
気づけば道路の真ん中を歩いていた。
二七歳、童貞、無職、全財産0円。おまけの最期に、最低の生き恥を晒した。
笑えんな。
誰か、僕を、車で、轢き殺してくれないか?
しかし、真夜中3時の道路は、車が一台も通らない。
僕はよろよろと職場のそばに戻ると、電車賃をケチるために乗り付けていた自転車にまたがり、猛スピードでペダルを漕いだ。
街を音速で横切る、一本の細長い直線になって、そのまま消えていきたかった。
19歳の頃、僕は光の速度で生きて、一瞬で消えて行くと決めていた。
なのに僕は27歳になり、まだ生きていて、全財産0円で、自転車を漕ぐしかなかった。
地獄というのはいつもすぐ目と鼻の先にあって、生きるということは、そこに飛び込み続ける瞬間の連続だと思った。
地獄、そしてまた地獄、そこから先も地獄はきっと、ずっと永遠に続く、どこにも行きたくないけど、ここにとどまりたくもないから、目の前に広がる、地獄の中に飛び込んで行くしかない。
5秒に1個ペースでボケを出していた、あの頃の速度で、朝から晩まで、机にかじりついて、ノート一冊を一日で使い切る、あの頃と同じ速度で、仕方なく僕は、自転車を漕いだ。そのままこの世から、消えられるような気がした、その時だった。
ハンドルが大きく揺れ、車体が斜めに傾ぎ、安定を失い、僕の体は宙に浮いた。
内臓がすべて、背中を突き破って、吹っ飛んで行くような感覚の後、背負い投げされたみたいに、僕は思いっきり、道路に叩きつけられた。
なにがなんだか、わからなかった。
猛スピードであの世にぶつかり、そして跳ね返され、戻ってきたかのような錯覚を覚えた。
アスファルトが顔のすぐそこにあった。
カラカラと自転車の車輪が回る音が聞こえる。
足からダラッと生温かい感触がして、下を見ると、僕の両足は血まみれになっていた。
足が震えていた。僕の下だけ地震が起きているみたいだった。無理に立ち上がる。全身のすべてが脳に向かってSOSを放っている。風が足に当たっただけで、刺されるような痛みが走った。
生温かい血が、黒いアスファルトの上に、大量に流れ、道路を汚していった。
気の遠くなるような痛みの奥で、黒の上に赤が広がるのを、きれいだなと思った。それは目の前にある絶望を、残さず食べ尽くしていた。
もしかしたら僕は、泣きながら笑っていたかもしれない。
その瞬間、僕はきっと、再び人間であることを、はみ出していた。
次回へつづく