21歳になって、ようやくケータイ大喜利のレジェンドになった。
僕は、その直後に吉本の劇場作家になった。
当時、自分のことを天才だと思っていたため、その行動力も常軌を逸していた。自分が書き貯めたネタの中から、出来が良い物を、100本プリントアウトして、吉本の劇場の受け付けに押しかけたのだ。
受け付けで、門前払いを食らうも、食い下がり、「どのコンビのどんなネタでも作れます!」と言って、100本の台本を突き付けた。
僕は奥の会議室へと通され、しばらくすると、そこへ劇場支配人が現れた。僕の台本を受け取って下さり、連絡先を教えて、そのまま帰った。
後日、劇場支配人から電話が掛かって来た。
「劇場に来る気はあるか?」
僕は「はい!」と答えた。
◆
吉本の劇場に入ったばかりの頃、あるベテラン漫才師が僕にこう言った。
「お前、今まで吉本に入って来た構成作家の中で、一番イカレてるな」
その時、僕は「お笑いなんて物自体、イカレてる人間がやるものじゃないのか?」と思った。
「頭がおかしい」という言葉がある。一般社会では悪口だけど、お笑いの世界において、それは最高の褒め言葉だ。
お笑いをやるということは、ある意味で「頭がおかしい」と思われるのを、目指すということだと思う。
ボケの本質とは、ずれること、間違えること、それなのに、おもしろいことだ。それをひたすら続け、お笑いに狂うということは、どんどん現実や常識から解離していく行為だ。
本気でお笑いをやっている以上は、頭がおかしいくらいに、笑いに狂うことこそが正義だと、僕は信じて疑わなかった。
ある日、いつものように劇場に居たら、謎のオッサンが突然、話しかけて来た。
「この劇場の作家の中では、お前が一番才能あるわ」
そう言って、謎のオッサンは去っていった。すぐに血相を変えた先輩の構成作家が、僕の方へと駆け寄ってきた。
「おまえ、今、あの人と、何か話してたやろ?」
「えっ?」
話してたけど、なんだよ、その圧は? と思った。
「なんの話しててん?」
「ようわからん感じでした。知らんオッサンに、急に話しかけられたんで」
「お前アホか! あの人、凄い人やねんぞ」
先輩作家はそこから、あのオッサンがどれだけ有名で、実績のある構成作家なのかを、僕に熱弁し始めた。
当時、尖りまくっていた僕は、「へー。あのオッサン、そんなに凄いんか? この劇場でオレが一番? ……当たり前やろ! 今までオレがどんだけ、笑いに狂って生きてきたと思っとんねん!」と、本気でそんな風に思ったのだった。
当時の僕は、自分を天才だと勘違いしていた。思い出しただけで、恥ずかしい過去だ。今思えば、天才どころか、才能もない、熱量が暴走しているだけの、ただのバカだったと思っている。
僕はその劇場で、一番上のランクにいた芸人さんのライブを一度、担当した。
そのライブが終わると、その芸人さんはわざわざ僕のところまで来て下さり、「ありがとう御座いました! おつかれさまです」と深々と頭を下げた。
僕も「おつかれさまでした」と返しながら、内心感動していた。芸歴も年齢も遥かに上のその人が、わざわざ僕に挨拶をしに来て下さったのだった。一番後輩だった21歳の僕に。
僕もいつか、自分がどんなに出世したとしても、あの人のような人間で、ありたいと思った。
しかし僕は出世するどころか、すぐに吉本を辞めることになる。
僕は劇場支配人に呼び出され、理由を問いただされた。この人が僕を吉本に入れてくれたのに、僕は何も言えなかった。
◆
劇場に入ったばかりの頃、先輩作家にこんなことを言われた。
「僕らは構成作家の養成所に1年通って、そこからノーギャラで何ヶ月か、お手伝いしたりして、やっと劇場に入れたんやで? お前は良いよなー。すぐに劇場作家になれて」
その当時、劇場には構成作家見習いが、僕を含めて5人居た。僕以外の4人は全員、構成作家の養成所の出身者で、年齢は僕と同世代だった。
4人は同期で、同じ釜の飯を食べた仲間で、そこにある日1人だけ、部外者の僕が、突然紛れ込んだ形になったのだった。そのせいなのか、僕はこの4人に、会った瞬間から、嫌われていた。
それに反発するように、僕の方も4人に対し、そんな感情を抱いていた。養成所だかなんだかしらないが、実力勝負ならば絶対に勝てる、と。
4人はいつも、ライブが終わっても劇場に残り、くだらない話をえんえんとしていた。例えばそれはこんな内容の話だった。
「東京の芸人はクソや。ぜんぜん笑えへん。大阪が一番や」他の3人はそれに賛同する。
僕は腹の中でこう叫んでいた。「東京にもおもしろい芸人は腐るほどいる。何だその偏見は?」
それを口にすることは、後輩という立場上、許されなかった。無言でずっと、くだらない話に耐えていると、4人の中の1人が言った。
「何や? その帰りたそうな顔は? 帰りたかったら帰ってええで」
僕はもうそれ以上、くだらない話を聞かされることが我慢できなかったので、「おつかれさまです」と言い残して、1人だけ先に帰った。
後輩なのに、先に帰ったら後で悪口を言われるかもしれないと思ったが、これ以上、つまらない話を聞かされるくらいなら、悪口を言われた方がマシだと当時の僕は思った。
彼らは僕の悪口をまことしやかに吹聴し、いつしか僕は、舞台監督や社員さんにまで嫌われるようになった。
僕はそのまま一番下のオーディションライブの担当に左遷され、どんどん劇場内での居場所を奪われて行き、何度も4人に「お前なんか来るな」「作家辞めろ」と言われ続けた。
すべての物事が、僕を吉本から排除するために、動いているみたいだった。人と話すことが絶望的に苦手な僕は、どうすることも出来なかった。
自分に出来ることをやるしかないと思った。
起きてる時間はすべて、笑いに使って来た。これからもずっと、僕はそうやって生きて行くつもりだ。
脳みそは既に、笑いを量産できるように改造済み。捧げられる物は、すべて笑いに捧げる。お笑いの世界で生きられないなら、死ぬしかない。
僕は何よりもお笑いが好きで、お笑いを取ったら、何も残らない人間。それを証明しなければ、僕はここから排除されてしまう。
僕はネタを作りまくった。
4人がダラダラと雑談をしたり、飯を食っている間も、僕はひたすらネタを作りまくった。4人が遠くの方で、僕のそんな姿を嘲笑うのが聞こえた。
それでもネタを作りまくった。僕が一番おもしろいということを、一刻も早く、証明しなければ、僕はここから排除されてしまう。ずっと見えないピストルを、こめかみに突き付けられているような感覚だった。
帰りはいつもバレないように、資料室に忍び込んだ。そこにはあらゆる若手芸人の単独ライブの台本が、図書館のように貯蔵されていた。そこから大量の台本を借りて帰り、家でそれを読み漁り、ネタの方程式を分析して、寝ずにネタを作りまくった。
すぐに僕の目の下には、常にクマがへばりつくようになった。
今が何月何日なのかも分からなくなり、食事さえ食べるのを忘れるくらい必死だった。こんなことを続けたら、過労死するんじゃないかと思った。
だけど、僕は信じていた。
お笑いに一番長く、時間と労力を費やしている人間を、絶対にお笑いの世界が、切り捨てるはずがないと。
そう信じていた。
そう信じていたのに。
その日は訪れた。
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