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リディア・デルガードは体育館に大勢いる十代のチアリーダーたちを眺め、娘がその一員でないことに心のなかで短く感謝の祈りを捧げた。チアリーダーたちに文句があるのではない。リディアは四十一歳だ。チアリーダーを憎む段階はとっくに過ぎている。いま憎んでいるのはその母親たちだ。
「リディア・デルガード!」ミンディ・パーカーはいつも人をフルネームで呼ぶ。勝ち誇った陽気な声には含みがあった。みんなのフルネームを覚えているなんて頭いいでしょ?
「ミンディ・パーカー」リディアのトーンは数オクターブ低かった。どうしようもない。昔から天邪鬼なのだ。
「今日はシーズン最初の試合よ! 今年はあの子たちにチャンスがあると思うわ」
「もちろん」リディアはうなずいたが、完敗するだろうことはみんなわかっていた。
「それはそうと」ミンディは左脚を前に出し、両腕を頭上に伸ばしてから前屈をした。
「ディーのためにあなたの承諾書がいるの」
リディアはなんの承諾書かと尋ねようとして思いとどまった。「明日渡すわ」
「最高!」ミンディは過剰なほどたっぷりと息を吐いてストレッチを終わらせた。すぼめた唇と目立つ受け口を見て、リディアはいらついたフレンチ・ブルドッグを連想した。
「ディーに疎外感を味わってほしくないの。わたしたちは奨学生たちをとても誇りに思っているのよ」
「ありがとう、ミンディ」リディアはこわばった笑みを浮かべた。「ウェスタリー・アカデミーに入るのにただお金があるだけじゃなくて、成績がよくなくちゃいけないのは悲しいわ」
ミンディも引きつった笑顔を返した。「そうね、じゃあ、そういうことで。承諾書は明日の朝お願いね」そう言ってリディアの肩をぎゅっとつかんでから、ほかの母親たちがいる観覧席のほうへ跳ねるように階段をのぼっていった。リディアはマザーファッカーという言葉を使いたくなるのを懸命にこらえた。
バスケットボールのコートを見わたして娘を捜す。一瞬パニックに陥りそうになったが、すぐに隅のほうに立っているディーを見つけた。親友のベラと話しながら、ボールをバウンドさせてパスをしている。
あの少女がほんとうに自分の娘だろうか? 二秒前、この子のおむつを替えていたはずなのに、一瞬よそ見をして振り返ってみたら、ディーは十七歳になっていた。あと十カ月もしないうちに大学に行ってしまう。恐ろしいことに、すでに荷造りを始めている。クロゼットにあるスーツケースはパンパンでファスナーが閉まりきらないほどだ。
リディアはさっと涙をぬぐった。いい歳をした女がスーツケースごときで泣くなんてふつうじゃない。その代わりにディーから聞いていない承諾書のことを考えた。きっとチームで特別なディナーに行くのだろう。うちにお金がないと思って言いだせないでいるのだ。
ディーはわが家が貧しいわけではないというのをわかっていなかった。たしかにトリマーのビジネスが軌道に乗るまでは大変だったが、いまはちゃんとした中流階級の暮らしをしている。まあ人はたいていそう言うものだけど。
ただわが家はウェスタリー的に裕福ではないだけだ。ウェスタリー・アカデミーの親たちは、子どもを私立学校に通わせるのに必要な年間三万ドルを楽に支払える。クリスマスにはタホでスキーを楽しんだり、プライベートジェットをチャーターしてカリブ諸国に行ったりする。リディアは娘に同じことはしてやれないが、高級レストランでくそいまいましいステーキを食べさせることはできる。
もちろんもっと穏当な言い方でこれを伝えるつもりだが。
バッグに手を入れてポテトチップスの袋を取りだした。向精神薬を舌の上で溶かすのと同じように、塩と脂がたちまち慰めをもたらしてくれる。今朝スウェットパンツをはいたとき、ジムに行こうと自分に言い聞かせた。実際ジムの近くまで行ったのだが、それは駐車場にスターバックスがあるからだった。感謝祭はもうすぐそこで、ひどく寒い日だった。
久しぶりの休日をパンプキン・キャラメル・スパイス・ラテで始めてなにが悪い? それにカフェインが必要だ。ディーの試合の前にすませておく雑事が山のようにある。食料品店とペットフードショップ、スーパーマーケットの〈ターゲット〉と薬局で買い物。銀行に寄ったらそこでいったん荷物を置きに家に帰り、十二時までに美容室に入らなければならない。もはや髪をカットするだけではなく、ブロンドの髪に交じる白髪を染めてもらう必要があるのだ。
リディアは指先で上唇に触れた。ポテトチップスの塩が肌にしみる。
「最高」今日口まわりの産毛をワックス脱毛したことを忘れていた。担当の女の子は新しい収斂剤を使うと言っていたが、それがひどくかぶれて一、二本の抜き残しではなく、立派な赤いカイゼルひげが出現していた。
ミンディ・パーカーがほかのマザーたちに報告するのが目に見えるようだった。「リディア・デルガードったら! ひげの形に赤くなってるの!」
リディアはふたたびポテトチップスを口いっぱいにほおばり、シャツに食べかすがこぼれるのもかまわずバリバリ噛み砕いた。カロリーの高い食べものをがつがつ食べるのをマザーたちに見られるのも気にしなかった。がんばっていた時期もある。四十になる手前の ころだ。
ジュースダイエット。ジュース断食。ノー・ジュースダイエット。フルーツダイエット。卵ダイエット。カーブス。ブートキャンプ。五分間有酸素運動。三分間有酸素運動。サウスビーチダイエット。アトキンスダイエット。パレオダイエット。クロゼットにはeBayで買って長続きしなかったさまざまな品々が詰めこまれている。ズンバ用シューズ、クロストレーニング用スニーカー、ハイキングブーツ、ベリーダンス用小型シンバル、顧客のひとりにぜひにと勧められたものの、結局参加する気になれなかったポールダンス教室用のTバック。
標準より体重があるのは自覚していたが、ほんとうに太っていると言えるだろうか? ウェスタリー的に言えば太ってるだけじゃない? ひとつたしかなのは痩せてはいないということ。十代後半から二十代前半にかけてのほんの一時期を除いて、リディアはずっと体重と格闘していた。
これがマザーたちを憎むうしろ暗い秘密だった。彼女たちが許せないのは自分が彼女たちのようになれないからだ。リディアはポテトチップスが好きだった。パンが大好きだった。おいしいカップケーキひとつのために生きていると言ってもいい——いや、三つかも。
トレーナーについてトレーニングをしたり、毎日ピラティスのクラスに出る時間はない。
リディアはシングルマザーだ。切り盛りしなければならないビジネスがあり、ときどき機嫌をとらなければならない恋人がいる。それだけじゃない。動物相手に働いているのだ。小汚いダックスフントの肛門もまわりの毛を吸引した直後もきれいでいるのは難しい。
ポテトチップスが空になり、袋の底に指が届いた。惨めな気分になった。本当にポテトチップスが食べたかったわけじゃない。ひと口食べたあとは味もわからなくなっていた。
うしろでマザーたちがどっと歓声をあげた。女の子が床で連続宙返りをやっている。スムーズな流れで完璧な動きだった。リディアも思わず目を奪われたが、それも彼女が両手を上げて着地を決めるまでのことだった。チアリーダーではない。チアリーダーの母親だった。
チアリーダーのマザー。
「ペネロープ・ウォード!」ミンディ・パーカーが大声で言った。「あなた最高!」
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