—正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。

「今日のコンサート、洋子さんには来ないでほしいんです。お願いします。」
コンサート会場で早苗に拒否された洋子。そして会話の流れは思わぬ方向へ転じ…。
洋子は、2年前のあの別れの日の真実を知ることになる。

「洋子さん、知らないと思いますけど、二人でここまで辿り着くのは、言葉に出来ないくらい大変だったんです。蒔野は、ギターに指一本触れられない状態が一年半も続いて、その間、本当に藻掻き苦しんだんです。そこから、猛練習して、やっと、……やっとなんです。今はまだ、いつ元の木阿弥になってしまうか、わからないような不安定な状態です。彼を煩わせないでください。お願いします! 彼の努力をふいにしないでください。わたしが彼のために尽くしてきたことを、台なしにしないでください。洋子さんは、蒔野にとってのマリアのつもりなのかもしれませんが、彼に必要なのは、マルタのように彼の人生の面倒をみんな引き受けられる人間なんです! ただ気が合うとか、喋ってて楽しいとか、そういう非現実的なことじゃないんです。どうして今頃になって、また彼の前に現れようとしてるんですか?」

 洋子は、気色ばんで必死に訴える彼女を見ていて、なぜかむしろ、リチャードから言われた「君は冷たい。」という一言を思い出した。

 彼こそは、まさに自分にマリアのように、ただ傍らに寄り添って、その話に耳を傾けてほしかった人ではなかったか? そして、自分は決してそうではなく、といって、マルタのように彼に尽くすわけでもなかった。

 蒔野に対しては、自分は早苗の言う通り、マリアであり得たのだろうか? そして、それでは彼は立ち直れなかったのだと。しかし、エックハルトは、マリアもいずれは、時間と共にただ神の傍らにあるという「歓喜と甘美さ」から発って、マルタのような「永遠なる浄福」のために、事物の傍らに立って「奉仕の生活」を始めると説いたのではなかったか。……

 洋子は、そんなことを長い一瞬に思索し、結局、こんな考え方の何もかもが間違っているのだと結論した。決して信仰ではない。自分はただ、彼を愛していたのだからと。そして、早苗はまさに、蒔野を信仰するかのように愛してきたのだということが、ひしひしと伝わってきた。その愛の渦中で、今、一つの命が彼女の体に宿っている。

 洋子は、何も言えずに黙っていた。

 確かに、蒔野のコンサートには、行くべきではないのかもしれなかった。そして、離婚前後から、また俄かに昂じていた蒔野への思いが、内から少しずつ、痛みへと転じてゆくのを感じた。

 —ところが、この長い沈黙が、思いもかけない事態を齎した。

 早苗は、伏し目がちに口を噤んでいた洋子が、再び視線をもたげたのを機に、更に追い打ちを掛けるように、次のように言った。

「洋子さんには、何も悪いところはないんです。ただ、洋子さんとの関係が始まってから、蒔野は自分の音楽を見失ってたんです。」

 洋子は、その言葉を耳にするや、色を失った。そして、愕然とした面持ちで早苗を見つめた。これまで想像だにしなかった疑念が唐突に彼女の内に芽生えて、あの夜の記憶を、瞬く間に染め直していった。

 彼女の胸の裡では、この三年間、努めて忘れようとし、ようやく薄らぎつつあった蒔野からの別れの言葉が谺していた。

 —あなたには、何も悪いところはありません。ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。……

 しかし、そのメッセージを今読み上げるのは、蒔野の声ではなく、目の前にいる早苗の声だった。

 早苗は、洋子の異変に気づかないまま、

「またそうなってしまうのが怖いんです。……」

 と続けて、ようやく不審らしく口を噤んだ。そして、ハッとしたように口に手を宛てがいかけて、そのまま胸の前で曖昧に握った。

—あなただったのね?」

 早苗は、動揺を隠すように唇を噛み締めた。

「あなたが、あのメールを書いたのね?」

 勿論、蒔野があとから、自分の書いたメールの内容を早苗に語ったのかもしれなかった。しかし、洋子はこの時、三年前に放たれ、なぜか行方知れずとなっていた真実の矢に、唐突に射貫かれたかのように、確信を以て、早苗に問い正した。

 何の話か、わからないふりをするのは、もう手遅れだった。早苗は、洋子の眼差しに射竦められ、あまりにも正直に、既にその表情で、自らの罪を認めてしまっていた。

 洋子は、早苗が否定しないのを見て、目を閉じ、現実の世界から落剥してしまいそうな繊細な震えを、眉間の皺からその美しい額へと走らせた。そして、小さく首を横に振った。

 早苗は、その様子を、放心したような面持ちで眺めていた。それから、これまで必死で抱えてきた秘密の一切合切を、これを機に、みんな放り出してしまおうとするかのように、あの日、何があったのかを喋り始めた。新宿駅の南口で洋子を目にしたことも、メールは一通だけで、その後のやりとりには関わっていないことも、包み隠すことなく打ち明けた。そして、こう弁明した。

「洋子さんを欺してしまったのは、……申し訳なかったと思います。すみません。でも、あのままだったら、蒔野はきっと今もまだ、ギターを弾けない状態だったと思います。洋子さんには、洋子さんの素晴らしい人生があるじゃないですか。でも、わたしの人生は、蒔野を奪われたら、何も残らないんです! とにかく、どんな方法でもいいから、彼の側に居続けたいと思ってました。たとえそれが、人として間違っているとしても。—正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。わたしの人生の目的は、夫なんです!……だから、お願いします。今日はコンサートには来ないでください。もう彼の人生に関わらないでください。今はもう、彼とわたし、それに、新しく生まれてくる子供の人生があります。」

 洋子は、早苗が語り終えるまで、ただの一言も発しなかった。

 彼女の振り回す短慮が、切れ味の悪い刃物のように自分を傷つけてゆくのを、黙って許していた。激しい憎悪を掻き立てられるというよりは、もっと空虚な感覚だった。そして、胸の裡で何度となく、なぜなのかしら?と呟いた。問う意味のないことは、百も承知の上で、彼女は、祈るようにしてその反復に縋った。

 臆病な覚悟が、早苗の存在に、一種特権的な優越感を齎していた。

 愛のためには、人として悖ることさえ厭わないという彼女の開き直りには、嫌悪感を覚えた。しかし、蒔野のために、自分はそこまで身を落とすことが出来ただろうかと、洋子は心細くなった。或いは、そうした方法を必要とすることなく、蒔野に愛され得た自分への、痛烈な復讐のようにも感じた。

 そして、洋子はもう一度、心の中で呟いた。—なぜなのかしら?……

 早苗に尋ねたいのではなかった。もっと漠然とした、運命的なものに向かって、洋子はただ当てもなく問うていた。

 早苗が話を終えてからも、洋子はしばらく、口を開くことが出来なかった。彼女を見つめていた目を力なく手元に落とすと、氷が溶けて薄まったコーヒーではなく、水のコップの方に手を伸ばした。早苗は、中身をかけられるのではないかと怯えた風に、一瞬、身構えた。洋子は、その挙動に気がつき、コップを少し傾けて、表面張力で丸みを帯びた水の縁に目を留めた。そして、やるせない表情で早苗を見返すと、

「それで、……あなたは今、幸せなの?」

 と低い声で尋ねた。早苗は、きっぱりと答えた。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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