洋子は、早苗の意図がわからなかった。早く本題に入ってほしかったが、適当な理由でこの場を切り上げてもいいのではないかと思った。
早苗は、しきりに汗をかくアイス・カフェラテのカップで、その手を濡らしていた。
「難しいわね。神に対して活動的な生と観想的な生と。……」
「わたし、マリアは絶対、わかってやってるんだと思うんです。姉が忙しく準備してるのは百も承知で、その上で、ただずっと、イエスの側にいたんだと思うんです。マリアは心の中では、姉を馬鹿にしてるんですよ! イエスって、どうしてそういう女の狡賢さがわからないのかなって。」
洋子は、早苗のナイーヴさが嫌いではなかった。初対面の時にも好感を抱いたが、今も、聖書のエピソードに、そんなふうに易々と感情移入し、それを我がことのように語る彼女の衒いのなさに、幾分、眩しささえ感じた。
洋子の脳裏には、マルタの処女性という聖書の原典には記述のない特性に強く拘った、マイスター・エックハルトの奇妙な解釈が浮かんだ。彼は、処女の無垢な「とらわれることのなさ」を賛美しながら、それに留まらず、女としてイエスを受け容れ、「父である神の心の内に生みかえす」精神の高貴さを称揚したのだった。その美しい神秘のヴィジョンが、向かい合う、一人の妊婦の姿を透かし見せながら揺曳した。
蒔野の妻として、自分は早苗を愛することが出来るのだろうかと、洋子は不意に考えた。その懐妊を祝福することが出来ないというのは、どうかしているのではないか、と。
今はもう、そうするより他に、自分の幸福はないことくらい知っているはずだった。
「そうかもしれないわね。……」
「洋子さんはどう思います? 洋子さんの考えを知りたいんです。」
「——わたしの?」
「はい、教えてください。」
「そうね、……わたしの理解は、早苗さんとは違うの。やっぱり、信仰の問題だから。イエスは、神の子でしょう? ただのゲストじゃない。マリアが、ただイエスの側にいることを選んだっていうのは、よくわかる。他の選択肢はなかったでしょう。」
「でも、一生懸命なマルタは、かわいそうじゃないですか?」
「マルタはかわいそうね。……でも、イエスも、マルタが妹を咎めるまでは、彼女が忙しく立ち振る舞っていることに、何も言わなかったでしょう? マリアから、たった一つの『必要なこと』を『取り上げてはならない』っていう言葉には、マルタの不安を鎮めようとする響きもあるんじゃないかしら。」
「えー、……でも、マルタだって、本当はただ、イエスの側にじっとしていたいでしょう? けど、そしたら、誰もイエスをもてなす人がいなくなってしまう。だから我慢して、一生懸命、動き回ってるんじゃないんですか? マルタは別に、妹に手伝ってほしかったんじゃないんだと思うんです。ただ、イエスにその気持ちを知ってほしかったんじゃないですか?」
「それでもやっぱり、これは信仰の問題なのよ。ある時、突然、神に語りかけられる。その存在を間近に感じる。それは、決定的な瞬間なのよ。日常的な時間の流れとは断絶がある。——その時には、ただ神の下で、その言葉に耳を傾ける以外にない。イエスは、マルタを理解した上で言ってるんじゃないかしら? 神のために尽くすことを考えるあまり、彼女はその決定的な瞬間に、神から遠ざかってしまっているんだから。」
「洋子さんは、やっぱり、マリア派なんですね?」
「——派っていうか、……」
「この話、今まで誰としても、わたしも含めて、みんなマルタ派だったんです。——じゃあ、もし、イエスが神じゃなくて、ただの人だったら? やっぱり、誰かが彼をもてなさないといけないでしょう?」
「イエスがただの人だったなら、マルタはゲストの彼に妹の怠惰を言いつけるんじゃなくて、マリア本人に、ねぇ、ちょっと手伝ってよ、とか、代わって、とか言うべきでしょうね。」
洋子は、この不毛な神学論争を終えてしまいたい気持ちで、そうユーモアを交えて言った。
自らは無信仰であるにも拘らず——いや、むしろ、人生で何度か、信仰へと強く引き寄せられた時期があり、しかも結局、踏み止まったが故に——、彼女はこれが、信仰を巡る物語であることに、当たり前に強くこだわった。そして、食い下がろうとする雰囲気の早苗を制するように、改めて尋ねた。
「それが、わたしに話したかったこと?」
早苗は、その一言に反発し、押し返そうとする力が余って、これまで言い淀んでいた言葉を、とうとう口にした。