七月いっぱいを長崎で過ごすと、三人揃って、飛行機で東京に移動した。
洋子の母は、横浜に住む友人に会いに行くらしかった。洋子とケンは、東京に更に二泊、滞在する予定だった。
「あなたたち、何をして過ごすの?」
母は、空港で洋子に尋ねた。洋子は、一つには移動続きのケンの体調を心配して、その曖昧な三日間という余裕を設けていた。幸いにしてケンは元気で、もし洋子が、東京で誰かに会う予定でもあるのなら、その間、面倒を看てもいいと母は言っていた。
洋子は、代々木の白寿ホールで開催される蒔野のコンサートに行くべきかどうかを迷っていた。彼の新しいデュオのツアーの記事を目にして以来、彼女はずっとそのことを考え続けてきた。
当初は、全国八カ所で開催される予定だったが、好評のために更に四公演が追加となり、東京公演は八月二日となっていた。長崎から東京への移動は、その日に間に合うように飛行機の手配をした。
既にチケットは完売で、当日券を求めて並ばなければならず、結局、聴くことは出来ないのかもしれなかった。
一人のファンとして、会場で彼の音楽を楽しむだけならばと洋子は考えていた。終演後には、CDの即売サイン会も予定されている。それに並ぶべきかどうかは、演奏中に結論を出せば良い。昔の友人として、改めて、ただ彼がサインを書き終わるまでの一、二分、言葉を交わすことが出来れば、自分の過去も変わるのかもしれないと漠然と思っていた。
洋子は勇を鼓して、とにかく、当日券だけは買いに行ってみようと、母にケンの子守を頼んだ。
母は、娘の仔細ありげな様子を察して、特に訳も聞かず、
「行っておいで。ケンちゃんを独り占め出来てうれしいわ。」
と頷いた。
洋子は、早めにホテルを出る予定だったが、いざ夜までのケンの準備となると、思ったよりも時間がかかり、挙げ句に、置いて行かれると察知したケンが大泣きし始めてしまい、代々木八幡のコンサート会場に到着した時には、既に当日券の売り出し時刻を過ぎていた。
この日も朝から強い日差しが照りつけていて、洋子は汗ばみながら、急いで当日券売り場に向かった。襟元の大きく開いたボーダーのシャツに、膝丈の白いコットンのスカートというカジュアルな格好だったが、メイクには時間をかけた。しばらく短くしていた髪は、また少し伸ばすつもりだった。
窓口に並ぶ者の姿はなく、却って不安だったが、空席を確認すると、辛うじて二席残っていた。
「よかった! じゃあ、一枚ください。」
ほっとしつつも、洋子は、蒔野との再会を俄かに現実として実感し、少し胸が苦しくなった。チケットには確かに、「蒔野聡史」という名前が印刷されている。
チケットを財布にしまって窓口をあとにすると、洋子はすぐ後ろに、妊婦が一人立っているのに気がついた。当日券を求めにきたのだろうか? あと一枚は残っているはずだと、傍らを通り抜けようとしたところで、
「——洋子さん?」
と声を掛けられた。
驚いて顔を上げ、一瞬、間があった後に、洋子の眸は張りつめた。
「蒔野です。」
と、相手は名乗った。
「覚えてます?——以前に一度、サントリーホールでお目にかかりました。あの頃は、旧姓の三谷で蒔野聡史のマネージャーをしてました。二年半前に結婚したんです。」
洋子は、声を失って、無意識に、もう一度彼女のお腹に目を遣った。
「六カ月なんです、今。やっと子宝に恵まれて。」
「そう、……おめでとうございます。男の子? 女の子?」
「女の子です。」
早苗の笑顔を見ながら、洋子の脳裏には、あの晩のスペイン料理店の記憶が蘇ってきた。彼女と会ったのは、その一度きりだったが、勿論、忘れられない人だった。
「今日のコンサートのチケット、買ってくださったんですか?」
「ええ、……丁度、長崎の実家に帰省してて、コンサートの情報を見たから。」
「結婚されて、ニューヨークにお住まいだって、伺ってましたけど。」
「……ええ。」
「お子さんも一緒ですか?」
「今は、母が面倒見てくれています。」
「かわいいでしょうね! わたし、ハーフの子って、憧れがあるんです。あ、洋子さんもそうですよね?——じゃあ、幸せですね、今はお互いに。」
洋子は、早苗の笑顔に、どことなく緊迫した、怯えたような気配を感じた。蒔野は、自分との関係を、彼女に話したことがあるだろうか?
「蒔野は今、リハーサル中なんです。」
「ああ、……そうでしょうね。」
「誰も通さないようにって、厳命されてまして。」
「もちろん、邪魔したくないから。」
「良かったら、お茶でもいかがですか? 久しぶりですし。」
洋子は、戸惑いつつ、さすがに気が進まなかった。
「どうしようかしら、ちょっとこのあと、……」
「どうしても、洋子さんにお話ししたいことがあるんです。」
「……わたしに?」
早苗は、頷いて微笑した。汗をかいて、薄いグレーのワンピースの襟元が染みになっている。街路樹から、蝉の鳴き声がしきりに聞こえていた。
洋子は、腕時計を確認してから、
「じゃあ、少しだけ。」
とそれに応じた。
駅に向かう商店街の入口にスターバックスがあった。この暑さのせいか、平日の午後の割に店内は混み合っている。
洋子と早苗は、どちらからというわけでもなく、二つ並んだレジでそれぞれに注文して一緒に席に着いた。
洋子は、アイスコーヒーにした。早苗は、冷たいカフェラテの他に、クッキーやブラウニーを買っていて、どうぞというふうにテーブルの真ん中に差し出した。水も二人分、汲んできていたが、洋子はそれを礼を言って受け取りつつも、コーヒーの隣に並べてみて、やはり不自然な気づかいと感じた。
向かい合って座ると、しばらく沈黙が続いた。
目の前に、蒔野の子供を宿した女が一人座っている。洋子は、かつて自分が、どれほど強くそれを夢見ていたかを思い出した。そして、彼が結局は、別の女性を愛し、今も愛しているというだけでなく、自分自身の年齢的にも、それはもう、不可能な願いとなってしまったことを自覚した。時の流れを感じ、その辛さに耐えられなくなって、
「話って、何かしら?」
と水を向けた。
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