一故人

大島渚、大鵬幸喜、安岡章太郎ほか—2013年1月の物故者

大島渚、大鵬幸喜、東松照明、安岡章太郎、常盤新平、ジェームズ・ブキャナン、長富祐一郎……2013年1月に鬼籍に入った人々の足跡をライターの近藤正高さんが綴ります。角界、映画界や文学界とそれぞれの分野で活躍した故人を偲ぶものとしてお読みください(東松照明の没年は2012年だが、その死が公表されたのは2013年1月である)。

映画とテレビのはざまで怒号する—大島渚(2013年1月15日没、80歳)

映画監督の大島渚が亡くなった際、テレビ出演も多かったからきっと各局が追悼番組を放送するに違いないと思ったのだがそれほどでもなく、ちょっと残念である。そのなかにあってBS朝日では、再放送ながら大島の半生をたどったドキュメンタリー番組を放映された(1月20日)。その番組はもともと、大島最後の監督作品となった『御法度』(1999年)の公開後の2000年に放送されたもので、番組中に大島はインタビューに答えているのだが、何度となく怒りをあらわにしているのがいかにも彼らしく、ぼくはついうれしくなってしまった。

なかにはインタビュアーにぶつけるのはやや理不尽に思える怒りもあったり、あるいは静かに憤りを示す場面もあった。たとえば、テレビ出演をめぐる以下のやりとりがそうだ。

「ある人がきっと、(テレビに)たくさん出ることで大島渚は自分の価値を下げてると……」
「それ言うやつは、全部バカです。(間を置いて)僕の価値は全然下がったことはありません」

大島がテレビに出演するようになったのはかなり早い。松竹退社後の1961年に、NHKの『私は陪審員』という番組に出演したのが最初だった。タイトルからもうかがえるように、ディベート番組の走りであったこの番組が大島にとってテレビ初体験であったことは、後年のテレビにおける彼の役どころを考えると興味深い。

さらに時代を下ると、討論番組、ワイドショー、バラエティ番組まで、じつに多くの番組に、画面映えのする和服や派手なシャツ(それらはすべて自身で選んだものだったという)を着て出演した。誤解してはいけないのは、大島はけっして映画製作の資金を稼ぐためにテレビに出演していたわけではないということだ。実際、彼はテレビに出ることが好きだと言ってはばからなかったし、また著書でテレビ出演の真意を以下のように語っている。

《テレビに出ることによって自分がメディアそのものに化してしまおうという気持ちがあったと思うね。きわどさを遊んでいるというか。テレビに微妙に関わりあいながら存在する。じっさいの存在じゃなくて、大島渚がテレビによって伝えられるイメージは大きい。そういうあり方をたえず検証していくというか、確かめていくという立場を選んでいる》『大島渚1968』

これを読むと、大島がテレビにおける自分のイメージにかなり意識的だったことがうかがえる。そもそも、テレビでは「バカヤロー」と声を荒らげて怒るキャラが定着していた彼だが、家庭ではほとんど怒ったことがないという。怒りもまた、テレビというメディアでの戦略だったというわけだろう。あるインタビューでは、自らを「怒ることの天才」と称し、相手がなぜ怒られたかわからないぐらいのタイミングで怒ることができると豪語してみせた(『週刊文春』2000年10月19日号)。もっともこの“才能”は、《その場で感情を爆発させないと何の意味もない》『大島渚1968』)という映画監督の職業柄、身につけざるをえなかったものらしい。

大島は、テレビも映画も同じ「映像」としてとらえていた。いまにして思えば当然のことなのだが、しかし1950年代にテレビが登場したときに映画の世界でそのことに気づいている人は少なかった。プロレス中継を見るため街頭テレビに人々が群がるのを見ても、《撮影所の人間はテレビを映像だと思わず中継機能だとばかり思っていた》という(『体験的戦後映像論』)。

《しかし、これらの考えはまちがっていた。どこがまちがっていたか。テレビは単なる中継機能ではなく映像だったのである。力道山とプロレスは映像になることによって人気を獲得していったのである。(中略)映像にはそうした力があるのである。
 撮影所の人間はほんとうはそのことを一番よく知っていたはずである。何の取り柄もなさそうなしろうとを連れてきてスターに仕立てあげたのは彼らの力であり彼らの映像の力ではなかったのか》
(前掲書)

やがて映画はテレビにとって代わられる。その理由のひとつとして大島は、映画の世界の人たちは、テレビは映像ではないと思っていたので、テレビから新しいスターが生まれる可能性を見通すことができなかったことをあげている。

こうした大島の言説から、彼が初期作品から素人を好んで演者に起用していたのは、映画における「映像の力」をいまいちどよみがえらせようという思惑からではなかったか……と考えるのはうがちすぎだろうか。もっとも、大島が起用したのはけっして「何の取り柄もなさそうな素人」ではなく、一芸に秀でた素人ばかりであったわけだが。『戦場のメリークリスマス』(1983年)の坂本龍一、デビッド・ボウイ、ビートたけしはいうまでもなく、『新宿泥棒日記』(1969年)では、当時イラストレーターとして人気絶頂にあった横尾忠則を主演に引っ張り出している。ボウイ以前より歌手の起用も多く、松竹時代の『太陽の墓場』(1960年)で佐々木功(現・ささきいさお)が美声を披露しているのをはじめ、『日本春歌考』(1967年)では荒木一郎が強い印象を残した。

《一番いいのは素人で、二番目が歌うたいで、三、四がなくて、五番目が映画スター、六、七、八、九となくて十に新劇》とは、撮影所に入って以来の大島の持論であった(『大島渚 「大島渚1960」』)。素人を最良とするのは、演技的にウソをつかないからだという。本当の性行為を映画で撮ろうと大胆にも挑戦した『愛のコリーダ』(1976年)で、主人公の阿部定の役に、ほとんど演技経験のない松田英子が抜擢されたのは、その顕著な例であった。

『愛のコリーダ』で本格的に世界進出を果たしたのち、『愛の亡霊』(1978年)、前出の『戦メリ』『マックス、モン・アムール』(1987年)と立て続けに外国資本により映画を撮る。しかしその後10年以上にわたりブランクができてしまう。このころ、彼は《いまの日本で日常的な仕事は監督じゃないのに監督と称しているのが3人いて、長嶋茂雄と、山本晋也と、大島渚だからね》(玉木正之編著『定本・長嶋茂雄』)と自嘲気味に語ったりもしたが、一方では『戦メリ』と同じくジェレミー・トーマスのプロデュースにより、往年のハリウッド俳優・早川雪洲を主人公にした映画『ハリウッド・ゼン』の準備を進めていた。ただ、同作は撮影直前までこぎつけたものの、資金調達ができず断念を余儀なくされる。

それでもくじけることなく、1996年にはさらなる新作『御法度』の製作を発表した大島だが、その直後に脳出血で倒れた。右半身が不自由になりながら、懸命のリハビリにより現場に復帰し、同作にふたたび取りかかり完成させた。しかし2001年頃から病状は再度悪化する。妻の小山明子(女優)の手記によれば、人の手を借りなければ何もできなくなってしまったことに自暴自棄になることもあったが、やがて現実を受け入れ、いまをより充実させることに目を向け始めたという。

思えば大島は、会社との衝突から松竹をやめ、同志たちとともに独立プロダクション「創造社」を設立したときといい、世界的な映画監督としては初めてハードコアポルノ『愛のコリーダ』を撮ったときといい、あるいはそれこそ世の“知識人”から冷笑されながらもテレビに出続けたことといい、それまでの経験や築いた地位をリセットしてでも新しいことへの挑戦をやめなかった。過去の栄光にすがらないという点では、晩年も変わりはなかったわけである。大島渚は最後まで大島渚であり続けたのだ。

沖縄、長崎……各地に根を下ろしながら写真を撮り続ける—東松照明(2012年12月14日没、82歳)

大島渚は1961年、松竹退社後に設立した「創造社」での第1作『飼育』(大江健三郎原作)で、スチール写真を写真家の東松照明に依頼している。映画全体に参加することを条件に引き受けた東松だが、結局いわゆるスチール写真は撮らず、撮影の最終段階になってロケ先の村の公民館にわざわざスタジオをつくらせ、出演者たちを一人につきほぼ一日をかけながら撮影していったのだという。

大島が東松に写真を依頼したきっかけは、前年に雑誌に掲載された「占領」と題する東松の連作の一部を見たことだった。このシリーズでは日本各地の米軍基地やその周辺のアメリカニゼーション(アメリカ化)された風景や人物が題材となっていた。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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