20世紀最高の傑作オペラ、その無限の可能性—『死の都』という文学[一]

1920年に初上演されて以降、世界中で繰り返し上演されている20世紀最高の傑作オペラ『死の都』。日本でも昨年春に、滋賀と東京の2カ所で上演されています。同じ「古典」とはいえ、五感で楽しむ芸術であるオペラを、一体どのようにして「読む」のでしょうか? その現代演出の違いを照らし合わせながら、その複数の「存在の可能性」について迫ります。

なぜ現代演出が異なるのか

 20世紀最高の傑作オペラ『死の都』を例として原典と演出の意味を考えていきたい。この連載名に「新しい古典を読む」とあるように「読む」というテーマの連載で、なぜオペラ『死の都』を取り上げるのか? 理由は、「読み取る」という行為をこのオペラ作品の演出を例としてとらえ直したいからである。そしてこの作品こそ、その本質を探るもっともよい例だからと考えるからである。

 まずは、オペラの2つの演出について、ごく一部ではるが、次のように映像として紹介されている部分を見ていただきたい。一つ目は昨年日本の新国立劇場でも上演され、日本で話題になった演出である。この演出が標準的なものだと思っている人もいるかもしれないが、他演出の雰囲気と比べて見ると興味深いだろう。なお、オペラ自体はドイツ語でなので、場面を飛ばしながら、雰囲気がわかれば問題ない。

1.「新国立劇場オペラ コルンゴルト「死の都」ゲネプロより」


新国立劇場オペラで2014年3月12日~24日上演された『死の都』のゲネプロ。

2.「DIE TOTE STADT - Oper Graz」


ケムニッツ・オペラハウス(ドイツ)で2015年1月18日から上演された『死の都』の紹介

 どうだろうか。まったく異なる作品に見えるのではないだろうか。音楽はもちろん同じである。だが、印象はかなり異なる。オペラの現代演出は現代劇のように多様な奇抜なものにもなりがちだとしても、この2つの演出はかなり大きく異なることは即座に見て取れる。そのことを意味について、文学を含めて「読み取る」ということに関連して考えてみたいい。

 新国立劇場オペラの演出では、閉ざされた静的な寝室を舞台に少数が歌い上げているのに対して、ケムニッツ・オペラハウスの演出では動的で幻想的な舞台に多数が入り乱れているようすが見て取れる。なぜここまで異なる演出の幅があるのだろうか。

オペラとはそれ自体が「批評」である。

 なぜオペラを「読む」ことができるのか。それは映画と比べるとわかりやすい。オペラは通常、映画のように「見る・鑑賞する」対象として存在するものと想定されている。間違いではない。そして映画に映画批評というジャンルが存在するように、オペラも独自の批評の枠のなかで扱われがちだ。それは多分に映画批評のようでもあり、音楽面に特化した批評でもある。

 しかし映画という表現では、通常その個別の映画のための個別の台本が書かれ、同じ台本で別の映画が作成されることはほとんどない。対して、オペラの場合は、台本(リブレット)と演出の関係は常にといってよいほど、一対多の関係になる。つまり、一つの台本に対して、その表現は常にと言ってよいほど異った複数のものになる。

 オペラでは、同じ台本から多数の表現が演出を通して可能になる。ゆえに特定のオペラが上演されるということは、その独自の演出が表現されるということになる。当たり前のことのようだが、その意味は簡単ではない。台本が存在するだけでは、オペラは存在できない。演出を通さなければ存在しえない。しかも、それは常に「複数の存在」の可能性として現れる。唯一の正しい表現といった存在ではない。

 では、演出とは何なのか? それは台本という文学の一つの了解の表現である。オペラでは台本を「読む」という行為が演出を形成しているのである。

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