だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。

洋子は久しぶりに手に取った蒔野のアルバムに、ある発見をして息を飲んだ。
そして、はじめて会った日に彼が言った言葉を思い出すー……。

 洋子は、《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》のCDと、あの初対面の夜にサントリーホールで聴いた《アランフェス協奏曲》のライヴ録音のCDとを、ジャリーラにもプレゼントするつもりで二枚ずつ買った。

 《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》というのは、今のイラクを思うと、憂鬱なアイロニーにもなりかねず、手元に届いたあとで、送るべきかどうか、少し躊躇した。

 CDには、蒔野自身も曲の解説を書いていたが、アルファベット表記のクレジット欄を見ていて、洋子は息を呑んだ。目立たない小さな文字で、最後にこう記されていた。

 —このアルバムを、親愛なるイラク人の友人ジャリーラと、その心優しい、美しい友人に捧げます。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 初対面の夜に、蒔野が食事の席で語ったことだった。

 洋子は、彼がその日に演奏した《アランフェス協奏曲》のCDを聴き、《この素晴らしき世界》のジャケットに記された献辞を眺めながら、またその言葉を思い出していた。

 蒔野はどういうつもりで、この一文を書いたのだろう?

 別れて、恐らくは一、二カ月後のことだった。結婚という現実を拒絶し、少し気持ちも落ち着いて、ほとんど思い出そのものに捧げたいというような心境だったのだろうか? 自分自身の気持ちの整理として。

 この献辞を添えることで、彼は過去を変えたのかしら? 目を背けたくなるような後味の悪さを、懐かしい回想にさえ堪える明るい悲しみへと。—そうした工夫を、人がしてはならない理由はなかった。彼も自らの生を、前へと進めなければならないのだから。

 もっと気楽に、古い友人の“粋な計らい”を喜ぶべきなのかもしれなかった。彼の音楽のファンである自分にとっては、これ以上の幸福などないはずなのだから。

 今再会すれば、蒔野はまた、冗談の一つでも口にしながら、極自然に握手を求めてくるのではあるまいか?

 一体、彼にどんな責めを負わせることが出来るのだろう? お互いにまだ、あまりに遠い場所にいたまま、早まって進みかけていた結婚を、彼は冷静に踏み止まった。そう言葉で振り返るなら、それを「おかしい」と言うことの方が、よほど奇妙に感じられた。

 面と向かっては、たったの三度しか会ったことのない人だった。にも拘らず、三年経った今でも、思い出すと、これほどまでに、自分の感情を掻き乱してしまう人。……

 自分はともかく、ジャリーラの名前を、そんなふうに簡単に扱えるものなのかしらと、洋子は首を傾げた。それは、彼女が知っている蒔野の繊細な思慮深さとは、どうしても結びつかなかった。

 むしろ、彼は何かもっと切実な思いをこの献辞に込めたのではないだろうか?

 あまりおめでたい想像で、自分をもう一度、傷つけてしまうことは恐かったが、洋子は今更のように、蒔野があの別れのメールのあと、何度となく電話をかけ、メールを書き送って伝えようとしていたことは何だったのかと考えた。

 それを知ることなく破棄するという決断によって、彼女は、彼との関係を自ら終わらせたのだった。もう決して後戻りしないために。そうすることが、あの時には、自尊心を守るための唯一の方法であったのかもしれない。

 洋子は今、その行動を振り返って、やはり自分は、健康ではなかったのだと感じた。

 仮に蒔野に会っていたとしても、懸念していた通り、冷静に話をすることなど出来なかっただろう。彼からのメールを未読のまま一斉に消去した時、彼女はその絶望的な決断に暗い目眩を覚えたが、悲しみの底へと落ちてゆきながら、しかしどこかで、安堵し、胸を撫で下ろしている自分にも気づいていた。

 あの時蒔野は、彼女にとっては、あまりに大きな苦しみだった。しかし、今なら?……

 リチャードとの離婚後に迎えた最初の夏季休暇を、洋子は、ケンを連れて長崎の実家で過ごした。出産に際しては、母がニューヨークまで手伝いに来たので、ケンが日本を訪れたのはこれが初めてだった。リチャードとは、夏は二週間ずつ、ケンと一緒に過ごす時間を持つ契約を交わしていた。

 二〇一〇年の夏は、後に気象庁が「三十年に一度の異常気象」と認定したほどの猛暑で、ケンは、母が通販で購入し、庭に設置した木製のブランコで遊びたがったが、座面は火傷するほど熱くなり、夕刻、それが和らぐまで待たなければならなかった。籐の寝ござが気持ちいいらしく、それまではクーラーの効いた部屋でよく昼寝をして、起きると頬にその跡を残していた。時差のせいで、日中の寝つきが良かった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

corkagency 「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。…… # 約4年前 replyretweetfavorite