「ユウキ。ママ、乳がんだって」
ママから思いがけない事実を打ち明けられたのは、新しい家に引っ越してすぐのことだった。
ユウキは最初、いつものようにママの悪い冗談だと思った。
ママは普段からこういう笑えないジョークを平気で飛ばしてくる人なのだ。昔からそう。はいはい、それで?と、ユウキはいつものように話のオチを待った。
ところが、この日のママは震えていた。見たことのないようなこわばった顔をして、目を泳がせていた。ユウキは、自分の体からさっと血の気が引いて行くのを感じた。
区の無料健診で再検査の診断を受けたママは、別の病院で改めて精密検査を受け、結果、進行性の乳がんと診断された。見つかったとき、がんはすでにリンパまで転移していて、0から4まで、細かく区切られている進行度で、ステージ3C。すぐに本格的な治療を始める必要があり、そうでなければ5年生存率は25パーセントだと告げられた。
病気のことを知らされた夜、ユウキは眠れなかった。
ママの様子を見て、決して楽観できない状況にあることは嫌でもわかった。かといって、ママから告げられたステージ3Cという状況を、自分で調べるのは怖かった。
何も知らないクラスメートが無邪気に送りつけてくる、たわいないLINEのメッセージにイライラした。スマホを遠くに放り出して、天井を眺めていると、ふと幼い頃のことを思い出した。パパがいなくなった日のこと。
少し前から、パパの部屋に一つ、また一つと、段ボールの箱が増えていた。気づいていたはいたものの、別に気に留めずにいた。けれどもある日、ユウキが保育園から帰ると、パパの部屋が空っぽになっていた。積み上げられていた段ボールの箱も、家具も、ユウキのいない間に全て運び出され、部屋の中が、空っぽになっていた。
何かが起きたということは幼いユウキにもすぐにわかった。慌ててママに詰め寄ると、「ご飯でも食べに行こう」と、近所のファミリーレストランに連れ出された。行くたびにおもちゃをくれるから、幼いユウキが一番大好きだったレストランだ。そこで、パパがもう二度と家には帰ってこないこと、パパとママが「りこん」したことを告げられた。
「なんで僕に言ってくれなかったの」
5歳のユウキは、声をあげて泣いた。
あれ以来パパには一度も会ってない。会いたい気持ちがなかったわけではないが、ママには言い出せなかった。それに、2人の生活が長く続くうちに、ママがいればそれで十分だと思うようになった。
「ユウキの幸せはママの幸せ」
昔からのママの口癖だ。
パパがいなくなってからは、パパの代わりにママが、ユウキをいろんなところに連れて行ってくれた。仕事で忙しいのに、自分のために沢山努力してくれた。そのことを、ユウキは知っている。
ママの運転する車の助手席に乗り込むと、ママがさっと、スマホを握った腕を前の方に伸ばす。
「はい、チーズ」
ママの笑顔と、わざと顔を歪めたユウキの変顔のツーショットが、ママのスマホの中には、数え切れないほど残されている。
泣こうと思ってなんかいないのに、不思議と次々に涙が溢れた。
狭く、静かな家の中で、下の階にいるママに決して悟られないように、呼吸を整え、なんとか落ち着こうとした。でも、どうしてもうまくいかない。それまで当たり前にそばにいた家族が、ある日突然いなくなる恐怖を、いやでも思い出さずにはいられなかった。 空っぽになったパパの部屋を目の当たりにした瞬間、ユウキの心の中にも同じようにひとつ、空っぽの部屋ができたのだ。ママと2人きりの生活の中で、時間をかけて埋めてきた。 なのに、今度はそのママがいなくなってしまうかもしれない。
ママが、死ぬかもしれない。
大声で泣いても、ママに怒っても、パパは戻ってこなかった。子供だった自分には何をすることもできなかった。あれからあんなに時間が経ったのに、まだ自分は力のない子供のままでいる。そのことがユウキはただ、悔しかった。
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