一故人

北の湖敏満—最強の嫌われ者「江川・ピーマン・北の湖」

第55代横綱として、憎らしいほど強いとまで言われた北の湖。引退後の彼は、日本相撲協会の理事長として難局にもあたることになりました。その人生を貫いたものは何だったのか、ライターの近藤正高さんが論じます。

「負けろ」と言われたほうが頑張れた

あまりにも強すぎて憎まれた横綱だった。第55代横綱・北の湖(2015年11月20日没、62歳)のことである。1970年代末には、誰が言い出したのか、このころ巨人入団の経緯をめぐり物議をかもしていた江川卓、子供の嫌いな食べ物の筆頭であるピーマンと並べて「江川・ピーマン・北の湖」というフレーズも生まれた。1960年代に子供の好きなものを並べて流行った「巨人・大鵬・卵焼き」の裏バージョンだ。

強すぎるうえに愛想がなく、また勝ったあとで相手に手を差し伸べることなど絶対にしなかったため、北の湖にはヒール役のイメージがつきまとうことになる。そんな彼に対し、同時代の大相撲で絶大な人気を得ていたのが大関・貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)である。小兵ながら相手が巨漢でも臆せず立ち向かっていく貴ノ花は、その悲壮感ある姿から判官びいきの日本人の心をつかんだ。

その貴ノ花の初優勝がかかった1975年春場所の千秋楽、対戦相手となった北の湖は一段と憎まれ役を買うことになる。結びの一番、単独トップだった貴ノ花に北の湖が勝ち両者13勝2敗で並んだため、優勝決定戦にもつれこむ。会場の大阪府立体育館は、もしこれで北の湖が勝ったら暴動になるのではないかと、当時の日本相撲協会の春日野清隆理事長(元横綱・栃錦)が心配するほど異様な雰囲気に包まれたという。結果的に貴ノ花が決定戦を制し、事なきを得たのだが。

それほどまでに嫌われながら、北の湖は気にしないどころか、むしろ観客から「負けろ」と言われたほうが気合いを入れられたという。ところが、最後の優勝を決めた1984年の夏場所では、珍しく「頑張れ」と声援が飛び、がっくり来てしまう。このとき、これはもう引退が近いと思った彼は、予感どおり翌年1月に現役を退くことになる。嫌われ者は嫌われなくなったときが潮時なのかもしれない。

稽古嫌いの努力家

北の湖敏満、本名・小畑敏満は1953年5月、北海道 有珠 うす 壮瞥 そうべつ 町に生まれた。その四股名は、三保ヶ関部屋に入門した際、郷里の洞爺湖にちなんで当時の三保ヶ関親方(元大関・初代増位山)がつけてくれたものだ。湖を「うみ」と読ませるのは、親方が小畑少年を迎えに行く前の九州場所中、福岡の街で『琴の うみ 』という映画のポスターを見かけて思いついたという。

初土俵は1967年の春場所。このときまだ墨田区立両国中学の1年生だった。2年後の春場所には大相撲史上初の中学生の幕下力士となる。記録は破られるものというが、1972年に相撲協会は文部省の通達を受けて「中学生は力士として採用しない」と決めたため、少なくともこの最年少記録は今後も不滅である。

幕下時代には、まだ10代にもかかわらず20歳と偽って年上の女性とつきあっていたが、期待の若手として雑誌でとりあげられたせいで本当の年齢がバレてしまい失恋したという逸話も伝わる。逆にいえば、すでにそれだけの風格が備わっていたということだろう。

このあとも72年に18歳7カ月で新入幕、73年には19歳8カ月で小結昇進と、ライバル・貴ノ花の持っていた最年少記録をことごとく塗り替えていく。なお、これらの記録はさらに後年、貴ノ花の息子の貴花田(のちの貴乃花)によって更新された。

初優勝は1974年初場所(14勝1敗の好成績)で決め、場所後大関に昇進。そして大関在位3場所のスピードで同年7月、名古屋場所のあと横綱に推挙される。大鵬の記録を2カ月上回った21歳2カ月での横綱昇進は、現在にいたるまで最年少記録である。

昇進を決めた直後の週刊誌の記事を見ると、「マンガしか読まない」「暇があればごろ寝」「ウイスキー1本を20分で飲み干す」などと、若き横綱の現代っ子ぶり、天衣無縫な人柄が強調されていた。次の発言もいかにも現代の若者らしいが、同時に大物の片鱗をうかがわせる。

《けいこはきらいだけど、相撲は大好きス。だけど、けいこも仕事のうちだから、ちゃんとやります》(『週刊読売』1974年8月10日号)

相撲好きだったのは本心で、幕内、小結のときは相撲が面白くて、早く本場所になればいいと思っていたとのちに振り返っている。だが、大関、横綱と昇進するうちに相撲が怖くなったともいう。本人いわく、いちばん相撲が怖かったのは、1978年に5場所連続優勝を成し遂げたまさに絶頂期だった(石井代蔵『土俵の修羅』)。

稽古嫌いは引退するまで変わらなかったが、それでも稽古をしない日はなかった。

《やっぱり横綱はある程度やらなくちゃいけないですよ。ボクなんか稽古が嫌いなんです。だけど負けると、それ以上に精神的にきついからやるわけですよ》(1984年の対談での発言。本田靖春『戦後の巨星 二十四の物語』所収)

「相撲が怖い」「負けると精神的にきつい」というのは、横綱としての責任感から来るものだったろう。引退後のインタビューでは、横綱になると負けられない気持ちが先に立ち、勝てば勝つほど、自然と稽古場で四股や鉄砲を何百回も繰り返すようになったと語っている。

《25歳の頃は稽古でも45番から50番やっていました。そうするとその50番の中に苦しいときがあります。5、6番目とか、12、13番目とか、やはり苦しいです。しかしそれを通りすぎると呼吸も流れていくんです。呼吸も苦しいのが収まって安定していくんです。そこまで行かないとダメなんです》(『ターザン』2002年10月23日号)

このもっとも激しく稽古をこなしていた25歳のころというのが、先述の絶頂期だ。

横綱の位に対する北の湖の責任感は記録にも表れている。新横綱で迎えた1974年秋場所から81年秋場所まで7年43場所連続皆勤は、白鵬(2015年名古屋場所まで8年48場所連続皆勤)に破られるまで最高記録だった。10年を超えて在位した横綱もいまのところ北の湖しかいない。

北の湖が引退したのは1985年の初場所と、両国に現在の国技館が竣工して迎えた最初の本場所だった。その前年の夏場所で全勝優勝したとはいえ、引退までの数年は休場も目立つようになっていた。それでも彼は新国技館に立つことを一つの目標として、それを達成したのち土俵を降りたのである。

ライバル・輪島との因縁の対決

北の湖を語るうえでどうしても外せないのが、彼より1年早く横綱となった5歳上の輪島の存在である。北の湖が横綱昇進を決めたのは先述のとおり1974年の名古屋場所だが、この場所で優勝したのは輪島であった。北の湖は千秋楽を13勝1敗の単独トップで迎えながらも、結びの一番で輪島に左下手投げで敗れ2敗に並ぶと、優勝決定戦でも同じ手で負け、逆転を喰らってしまったのだ。この2連敗に言葉で表せないほどの悔しさを味わった北の湖だが、しかしこの敗北が「絶対に勝つ」という原動力にもなったと、その後何度となく口にしている。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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