それとも、ただ束の間の関係として、すぐに忘れてしまっただろうか?

ジャリーラとのスカイプで、ふいに蒔野のことを思い出した洋子。
あの別れ以来、はじめて洋子は蒔野について調べてみるがー……。


「誰かを見殺しにしたとか、身代わりにさせたとか、戦闘で実際に人を殺したとか、そういう具体的な経験がなくても、生き残ったっていう事実自体、やっぱり人を苦しませるものなのね。他の人ではなく、自分が生き残ったことには、何か意味があるはずだって考えて、それが見つからないっていうことは、……あなたの経験とは比較にならないけれど、わたし自身も、それはわかる。」

 ジャリーラは、掌で何度も涙を拭いながら話を聴いていたが、自分なりに考えを整理しようと努めながら、

「あなたが、マキノサンを愛していた時にPTSDで苦しんでいたのも、そのせい? 幸福になってはいけないと感じてたからですか?」

 と尋ねた。

 洋子は、その思いがけない問いかけに、一瞬、言葉を失った。そして、すぐに、

「わたしの場合は、そうじゃなくて、バグダッドでの生活にからだが適応しすぎてしまっていたから。パリに戻ってからも日常生活に復帰できなくて、……」

 と否定しかけた。しかし、その先が続かず、むしろそうなのだろうかと考えた。「生存者の罪悪感survivor's guilt」という言葉まで知っていて、しかも、これまで一度として、そんなふうに思ってみたことがなかったというのは、むしろ無意識にそれを避けていたからなのかもしれない。蒔野から別れを告げられたあと、せめて彼からの電話に応じ、会話だけでもすべきであったのを、あんなに激しい発作に見舞われ、その不安のために、どうしても連絡できなかったというのは。—わからなかった。

 イラクで生きた自分を忘れ、無かったことのようにしたかったからこそ、却ってそのセンサーの警報音は、大きく鳴り続けていたのだろうか? 蒔野との愛に浸る幸福な自分は、あのイラクでの自分を消してしまいたがっていた。しかしそのために、イラクを体験したはずの自分は、むしろ狂ったように、そういう自分を責め立てていたのではなかったか? そのどちらもが、あのまま競うようにして自分を攻撃し続けていたなら、自分にも、自殺という発想が芽吹いた瞬間が訪れていたのだろうか?

 担当の医師は、そうした解釈をしたことがなかった。しかし、蒔野が、「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。」とまで口にして懸念していたのは、そういうことだったのだろうか? あんな馬鹿なこと。……彼はその約束を、まだ覚えているだろうか?

「いや、そうね、……そういうこともあったのかしらね。自爆テロに辛うじて巻き込まれずに帰国して、……」

 洋子は、そこまで言いかけたものの、やはり口を噤んだ。

 ジャリーラのその解釈は、彼女の脳裏に焼きついているあの夜の光景を、既に刻々と変えてしまいつつあった。それでも流石に、リチャードとの結婚が幸福ではなかったからこそ、PTSDは治まったのだとまでは考えなかった。

 洋子は、そうした話の流れで、実は最近、離婚したという話を打ち明けた。ジャリーラは、聞き間違いだろうかというふうに驚き、詳しいことを知りたがった。

 長い話になりそうだったので、洋子は、翌週また、スカイプ越しに、昔のように一緒に料理を作りながら詳しく話したいと提案した。既に二時間も喋っていた。ジャリーラは、その思いがけないアイディアに目を輝かせた。そして、二品ずつ、何を作るか考えておくことにして、メールで銘々、準備しておくべき食材を連絡し合う約束をした。

 洋子は、近いうちに一度、パリに行こうと考えていたが、その前にジャリーラには、洋服や食べ物など、必要なものから多少贅沢なものまで、まとめてプレゼントすることにした。

 何を送るべきか、リストを作っている中で、彼女は三年ぶりに、アマゾンで蒔野のページを開いた。結婚後は、しばらく無神経なDMが、購入履歴をアテにして、よく彼女に蒔野のCDを勧めていたが、そういうことも、いつの間にかなくなっていた。まるで、二人の関係の終わりの噂でも耳にしたかのようだった。そして、蒔野が二〇〇七年末以来、CDを一枚も出していないことを知ったのは、この時が初めてだった。

 蒔野の音楽的な不調のことは、あの頃も是永から耳にしていて、彼自身から届いた別れのメールにも、それが示唆されていた。しかし、その後、彼がこんなにも長い間、沈黙し続けていることなど、想像だにしていなかった。

 洋子は心配になって、やはり三年ぶりに「蒔野聡史」という名前を検索してみた。ウィキペディアの更新も滞っていたが、一ページ目の途中に出てきたクラシック専門誌のサイトには、この春からスタートしたというコンサート・ツアーについてのインタヴュー記事が出ていた。

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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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