ジャリーラと直接話す前に、もう少し詳しく情報を知りたかったので、久しぶりにフィリップとスカイプで喋った。PTSDに苦しんでいた時期には、イラクのニュースも意識的に遠ざけていたので、訊きたいことは山のようにあった。ジャリーラの家族の話だけでなく、支局にいたスタッフらの消息も気になっていた。
フィリップは、名前を挙げる度に、硬い表情で首を横に振った。洋子も、仕舞いには先を続けられなくなって、しばらく口を噤んでいた。それから、話題を政治状況についての一般的な方面に転じた。一時間近くも、彼女は一瞬を惜しむようにして会話に没頭したが、そういうことは、ニューヨークに来て以来、ついぞなかったことだった。
やがて、彼女自身の近況に話が及ぶと、離婚したことを打ち明けた。
フィリップは驚いた表情をしたが、すぐに、
「おめでとう。また新しい人生が始まるよ。」
と煙草に火を点け、一服してから続けた。
「俺は、君はてっきり、あの日本人のギタリストと結婚するんだと思ってたよ。バグダッドで、あれだけ毎日、彼の演奏を聴いたからね。リチャードとは、もう婚約してたけど、そんなの、どうにでもなる話だから。——ああ、東京に転勤届けも出してたんじゃなかった?」
洋子は、苦い笑みを微かに頬に含んで下を向くと、髪を掻き上げ、首のあたりで押さえながら言った。
「好きだったのよ、本当に彼のことが。あんなに誰かを好きになったことはなかった。——でも、フラれちゃったのよ。」
フィリップは、信じられない、というふうに眉を顰めると、
「大した野郎がいるもんだな。」
と言って嘆息し、ぼんやりした目で少し考えてから、改めて独りで首を横に振った。
「パリに戻ってきたらどうだ? みんな寂しがってる。」
「それもいいけど、子供がこっちにいるから。」
「俺なら、まだ独身だよ。」
フィリップは、本気ともつかない表情で洋子を見据えた。
「あら、口説いてくれるの?——あなたが煙草を止められるならね。」
「無理だと思って言ってるんだろう?」
洋子は、笑って煙草を消してみせた彼を、愛おしげに見つめた。
「変わらないわね、あなたも。大変な仕事を続けてるのに。」
「君こそ、全然変わらない。魅力的だよ、今でもとても。……イラクから帰国したあとの君の体調の悪化は、俺にも責任がある。君の人生も狂わせてしまったかもしれない。」
洋子は、彼がまだ語り終わらぬうちからそれを否定した。
「あとに続く人もいるし、管理者として反省するところはあると思うけど、わたし自身も、そのシステムの改善のために、事例を一つ提供したっていうつもりでいるから。自分も含めて、誰も責めないことにしてる。——あなたのことは、心から尊敬してる。本当に。今後の生き方を迷ってた時期だから、久しぶりに、ゆっくり話せて良かった。」
フィリップは、唐突に、自分の人生を、一つの風景として眺めさせられているかのような顔つきになった。そして、何か言おうとしていた。洋子は、その異変に鈍感ではなかったが、ほど経て、彼の口を衝いて出たのは、結局、極ありきたりな別れの挨拶だった。
洋子は、この時のフィリップの表情をいつまでも忘れなかった。それは必ずしも、
ジャリーラとは、翌日連絡が取れて、やはりしばらくスカイプで話をした。フランス語も上達していて、そのことを褒めるといつものように喜んだが、泣き疲れた目には、両親の死を知って以来の放心のあとがありありと残っていた。
彼女は、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかと、その意味を考えることに苦しんでいた。あの時なぜ、自分一人で逃げてきてしまったのか。なぜイラクに留まるという父の決断を、その後、説得して変えさせることができなかったのか。……
バグダッド大学出身という学歴は、まったく役に立たないまま、彼女は今、パリ郊外のサン・ドニのスーパーでレジ打ちの仕事をしていた。洋子も一度、知人のウェブ・デザイナーに彼女をアシスタントとして紹介したことがあったが、採用には至らなかった。
生きているだけ幸福なのだと、ジャリーラは信じようとしていた。しかし、だからこそ一層、自分がなぜ、その幸福に値するのか、わからないと言った。
洋子は、自分のPTSDを振り返って、心情的に、ただ優しく寄り添おうとすることも無駄ではないと知っていた。それはそれで、今の不安定な精神状態の支えとなるはずだった。
しかし同時に、ジャリーラが自らの感情を客観的に把握し、それが、社会的には既知であり、共有されたものであると知ることも必要だった。決して彼女だけが孤独に苦しむべき問題ではないのだ、と。
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