■『まんが道(みち)』なんだから、『おたく道(みち)』に決まってるでしょ!
大森望(以下、大森) 今日は水玉さんの思い出を語るということで「SFおたく道」とタイトルを付けさせていただきました。
いま司会の田中香織さんから「えすえふおたくどう」と紹介されましたけど、それだと水玉さんに怒られますね。「『まんが道(みち)』なんだから、『おたく道(みち)』に決まってるでしょ!」と、そこから説教される(笑)。
今日は、そういう水玉さんがどのようにして生まれたのかを、誕生の瞬間までさかのぼってじっくり伺おうということで、実のお兄さまである、岡部いさくさんをお招きしました。
岡部いさく(以下、岡部) 水玉螢之丞の遺伝上の兄の岡部です。妹の画業を見守ったり成長を助けたりということを一切しなかったので、ファンの皆さまの前ではアウェイ感すらあるのですが、皆さまに楽しんでいただけるお話ができればと思っています。
大森 岡部さんは、有形無形さまざまな影響を背中で与えてきたと思いますが、水玉さんの仕事に関しては基本的に見守る立場だった?
岡部 そうですね。一時期〈モデル・グラフィックス〉でいっしょに連載持ってましたが——妹のほうが先に連載してたのかかな——僕が「世界の駄っ作機」で連載の最初から変な飛行機を取り上げたら、電話がかかってきて、「兄さん、あんた大丈夫かい? いきなり突っ走って」って。 ツイッターでも書きましたけど、おたがい突っ走るタチじゃないですか。アレは妹なりにお祝いを言ってくれたんだろうなって思って。
1994年から1995年ごろ、息子が小学4年生で、ファコミン子どもだったんで、〈ファミ通〉は買ってて、毎週、その連載で妹の絵は見てましたね。
あー、相変わらずだなって。絵がクソうまいってのは、ずっと思ってましたけれども。
大森 岡部さん自身はゲームは?
岡部 息子に引きずられるようにして結構やりましたけども、反射神経がないので、アクションゲームはダメですんで。
大森 ゲームについて語り合うとかは? ドラクエとか。
岡部 ドラクエについて話すことはありましたけれど。あそこでアレはどうやったらいいんだろう、とか。攻略情報を。30代と40代で。
大森 「ゲームは大人になってから」「アニメは大人になってから。子どもが見るもんじゃないよ」って、水玉さん、よく言ってましたからね(笑)。
ゲームも、自分のカネで買って楽しむ、大人の遊びだと。それはともかく、じゃあ、小学生の息子さんにとっては、水玉さんは「ファミ通に書いてるエライ人」という。
岡部 ええ。そうでしたね。たまに妹の家に行ったとき、出たての『バーチャファイター』かなんかいじらせてもらって。息子の目から見ると、「自分の進むべき道の高い頂にいるちっちゃな叔母さん」って感じだったんじゃないでしょうか。
大森 息子さんは絵をねだったりしなかったんですか。
岡部 絵をねだるってのは結局やらなかったですね。僕も「世界の駄っ作機」なんかで絵を描いてたんで、絵ってものはねだって描いてもらうもんじゃなくて、自分で描けるようになんなきゃなんないものだってのがあったんじゃないでしょうか。
それはたぶん、ぼくのきょうだいの間でもそうでした。父親の膝に座って、「父ちゃん、『鉄腕アトム』描いて」「『ポンコツおやじ』描いて」「『フクちゃん』描いて」とかとかそういうことはしなかった。
大森 では、お父さんも子どもに絵を描いてやるということはなく?
岡部 何か説明するときにちょちょっと描くぐらいで。
大森 みなさんご存知かと思いますが、おかべりかさん、岡部いさくさん、水玉螢之丞さん3きょうだいのお父様がマンガ家の岡部冬彦さん。僕らの世代では絵本『きかんしゃやえもん』でしょうか。絵もマンガもお描きになっていて、芸術一家というか。実はお母様もデザイン事務所にいらっしゃったとか。
岡部 芸術ではないですよ(笑)。いわば貴重な紙資源を紙くずに変える(笑)。母は、若い時分に当時はまだ大御所じゃなかった亀倉雄策のところで烏口を研いだりとか、そういう仕事をしたていたようです。
大森 日本のグラフィックデザイナーの草分けですよね。
岡部 岩波写真文庫のデザインをすることで名取洋之助さんと知り合って、名取さんのところにちらちら出入りしていた美大崩れの生意気な漫画描きの岡部冬彦と知り合って、
大森 デザインが取り持つ縁というか、取引先に出入りしていた若者と結ばれたわけですね。