弁護士によるならば、非常にスムーズなケースらしく、子供も小さいだけに、条件の見直しに関しては、柔軟な内容となっていた。しばらくは、月の前半は、リチャードが日曜日から水曜日までの四日間、洋子が木曜日から土曜日までの三日間、ケンと一緒に過ごし、後半はその逆にするという取り決めで、夏季と冬季の長期休暇も含めて、年間を通じて丁度半分ずつ面倒を看ることになった。ヘレンと再婚し、姉のクレアの家族も近所に住んでいるリチャードと違って、ニューヨークに一人でいる洋子にとっては、容易ではなかったが、致し方なかった。
離婚を決断してから、洋子にとって意外だったのは、ヘレンの態度の冷淡さだった。リチャードの両親もやはりそうで、当然と言えば当然だったが、その変化があまりに急激だったので、かつて自分に向けられていた彼らの優しさまでをも、彼女は寂しく振り返った。
それぞれの新居も整わないので、しばらくケンは、今あるチェルシーの家で代わる代わる育てることとなった。家賃は、リチャードが支払い続けることとなった。洋子は、そこから歩いて行けるほどのグリニッチ・ヴィレッジにひとまず一人用の部屋を借り、リチャードとヘレンは、トライベッカに広い部屋を見つけたらしかった。
正式に離婚が成立し、いよいよ今日の午後から初めて、リチャードとヘレンにケンを託すという日曜日の朝、洋子は、リチャードにケンの着替えやおむつ、お気に入りのおもちゃなどの一揃いを説明したあと、三人で、自宅近くのハイラインに散歩に出かけた。
ウェストサイド線の支線で、長らく廃止されていた高架貨物線跡を、空中遊歩道として再開発した公園で、昨年の公開以来、近隣住民だけでなく、早くも知る人ぞ知る観光名所となっていた。
方々にかつての名残の線路や枕木が覗いていて、複雑に屈曲した遊歩道の両端には、二百十種類に及ぶという様々な植物が緑豊かに植栽されている。
晴天の清々しい日曜日で、まだ工事中の二十丁目よりも先を背にして、彼らはハドソン・リヴァーを右手に、ミート・パッキング地区の方に南下していった。
マンハッタンに長く住んでいるリチャードも、「ここは不思議な風景だなあ。」と、首を伸ばして通りを見下ろしたり、遠くの高層ビルを眺めて「ああ、あれが、……あ、そうか。」と呟いたり、すぐ側に建つビルの三階あたりの窓を遠慮気味に覗いてみたりした。
洋子も好きな場所で、チェルシー・マーケットまで買い物に行く時には、ケンと一緒によく往復したものだった。最初は抱っこ紐で抱え、そのうちにベビーカーになり、今日はもう、ジョギングする大人たちにぶつかりそうになりながら、駆け回っている。その度に、洋子は名前を呼びながら、慌ててあとを追わなければならなかった。
洋子とリチャードは、さすがに感傷的になっていたが、今後も度々顔を合わせることとなるだけに妙な気分だった。言葉少なだったが、すっきりした表情のリチャードは洋子にこう言った。
「僕たちはきっと、離婚してからの方がいい関係になれるよ。」
洋子は、しばらく黙って、手を握って歩いているケンを見ていたが、
「そうかもね。」
と微笑した。
ケンという子供を授かった以上、そもそもが間違った結婚だったとは思わなかった。しかし、あの時、彼が空港に迎えに来ていなかったなら——そして、自分自身があんなにも疲弊していなかったなら——、もう一度、蒔野と会って話をしていたのではないかという考えが、彼女の胸を過った。もう何度となく繰り返し、いつかそれを自分に禁じていた仮定だった。しかし、離婚が決まった今、その可能性を考える意味はまた、違っているような気がした。
洋子はケンに強く腕を引っ張られて、その思いがけない力によろめき、笑顔になった。
この子は何も知らない。すべてをこれから理解してゆかなければならない。
ケンは、自分のことをどんな母親だと思って成長するのだろうか。
ヘレンとはその後、一度も顔を合わせてはいなかったが、初対面の夜の悪印象が、洋子の心に影を落としていた。リチャードとヘレンとの新しい家庭では、凡そ自分とは真反対の価値観の下で育てられることになるだろう。
週の半分ずつ、二つの家庭を行き来しながら、彼はどんな考えを自分の中で育んでいくのだろうか? ある程度成長すれば、物の見方も相対化出来る。しかし、それまでは、何を信ずるべきか、混乱し、悩むことも多いだろう。教育方針を巡っては、リチャードとも、将来的に深刻な意見の相違があるかもしれない。
いずれにせよ、現状では、家庭環境に関する限り、自分よりもリチャードの方が断然整っていることは間違いなかった。
何か新しい仕事をしたいとは考えていたが、ケンの母親として、何をすべきかということを、洋子は以前よりも強く思うようになった。
「君の幸運を祈ってるよ。」
と、リチャードは、その真意を疑わせない表情で言った。洋子は、その「幸運」というありきたりな言葉の意味を噛み締めながら、
「ええ、あなたも。ヘレンとうまくいくことを祈ってる。」
と笑顔で応じた。
*
リチャードとの離婚が成立し、独り暮らしを始めて一週間ほど経った頃、洋子は久しぶりに、記者時代の同僚のフィリップから連絡を貰った。今年からまたバグダッド支局にいるらしく、今は彼自身が設定した例のルーティーン通りに、六週間の勤務の後、パリで二週間の休暇中だという。簡単な近況報告のあと、メールにはこう書かれていた。
「悲しい知らせを一つ伝えなければならない。
イラクに残っていたジャリーラの両親が殺害された。君も知っての通り、ジャリーラは家族をフランスに呼び寄せたがっていたけれど、手遅れになってしまった。まったく言葉もない。
今のイラクは、君がいた頃よりも更に混沌としている。アメリカ軍の撤退はもうじき完了するが、これは完全な敗走だ。状況は酷くなる一方で、何の改善の兆しも見えない。政権側のスンナ派の弾圧は苛烈で、これがどんなしっぺ返しを招くことになるのか、考えるだに憂鬱だ。
ジャリーラは、打ち拉がれている。さっきも会ってきたけど、辛いことばかりで、生き続ける意味を見失っている。君としばらく連絡を取ってないと言ってたから、時間のある時にでも、声を掛けてやってほしい。君と一緒に生活した頃のことを懐かしがってた。君の体調も心配してたよ。
君はきっとニューヨークの生活を満喫してるだろう。子供は元気? もう長い間会ってないけど、久しぶりのバグダッドで、君がいた頃のことを思い出したよ。
パリに来ることがあったら、ジャリーラと一緒に食事でもしよう。洒落たイラク料理のレストランを見つけたよ。」
フィリップのメールを読み終わると、洋子は、パソコンの前で両手で顔を覆い、「……なんてこと、……」と首を横に振りながら泣いた。腹部を誰かに蹴られているような、痙攣的な大きな震えが止まらなかった。
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