相手と一緒にいる時の自分を愛せないというのは、互いにとっての大きな不幸だった。

蒔野は、早苗から聞いたとある知らせに、洋子へのほんの少しの未練を今度こそ断ち切ろうとする。
一方、アメリカでは洋子とリチャードが三年に満たない結婚生活に終止符を打とうとしていたー……。

 早苗は、動揺した様子だったが、すぐに笑顔になった。そして、フライパンの火を止めると、蒔野と向かい合った。

—子供が出来たの。病院に行ったら、三カ月だって。」

 蒔野は目を瞠った。

「いつわかったの?」

「一週間前くらい。コンサートの準備に集中してるから、せめて初日のあとに言おうかと思ってたんだけど、あー、言っちゃった。」

「そっか。……ごめん、気がつかなくて。」

「ううん。わからないもの、まだ見た目では。—喜んでくれる?」

「くれるも何も、喜んでるよ! ちょっと、びっくりしたけど。そっか、……良かった。」

「じゃあ、わたしとこの子、二人分抱きしめて。」

 どことなく不安げに打ち明けた早苗を、蒔野は気遣いつつ抱擁した。

 人生が、また一歩、先に進んだことを感じた。そして、昨夜以来、再び昂じていた洋子への未練を、彼は今度こそ断ち切らねばならないと自らに言い聞かせた。

 今日のコンサートは、この生活のためにも成功させなければならない。—蒔野は、胸の内で呟いた。

 ◇第八章 真相

 洋子とリチャードの離婚を巡る話し合いは、アメリカでの通例に従って、双方が弁護士を立て、裁判所を挟んで進められた。

 洋子は、別れたいというリチャードの意思を理解し、この三年にも満たない短い結婚生活を終わらせることに同意した。彼が一足飛びに、離婚まで決意していたことには気がつかなかったが、ヘレンの存在を知って納得した。単なる不倫の相手というのではなく、リチャードは彼女と再婚するつもりだと打ち明けた。動揺がなかったと言えば嘘になるが、洋子は彼の裏切りを咎めなかった。

 唯一の懸念は、ケンの親権だった。リチャードの説明では、離婚後も共同親権制が採られるアメリカでは、家庭内暴力といった特別な事情がない限り、どちらかが親権を独占することはあり得ないらしく、実際に、洋子自身が調べ、担当弁護士に相談したところでも同様の回答だった。

 その上で、監護権をどのように分担するか、具体的には養育時間をどう割り振るかといった条件面での話し合いが持たれる必要があった。

「弁護士費用も嵩む。数カ月で済む話に、一年も二年も掛けてお互いに消耗するのは、馬鹿げている。僕は、君に余計な負担を強いたくないんだ。だから、合理的に考えよう。」

 リチャードは、不倫の咎は自覚していたが、卑屈になる風でもなく、彼があれほど「冷たい」と批判していた洋子の理知的な判断を頼んで、とにかく、穏便に、速やかにこの問題を片付けてしまうことを欲していた。財産分与に関しては最初から譲歩的だったが、ただ、ケンの監護権に関しては、公平であることに強く拘った。

 ケンは、ようやく転ばずに部屋を駆け回れるようになったくらいだった。最近は、洋子が一度、ドアに隠れて「バァー。」と姿を現したのが余程おもしろかったのか、どこに行ってもそれを真似て、物陰を見つけては、片膝に手を突きながら、「ばぁー。」と顔を覗かせるのがお気に入りだった。

 テレビに映っている象を見て、「ぞうさん、おっきいね。」という程度のことは言えるようになり、洋子が、「けんくんは、ぞうさん、すき?」と尋ねると、「こわい。」と、別に怯えた様子でもなく、ただ、自分の中の答えはそれしかないといった顔で即答した。ケンは、リチャードとは英語で、洋子とは日本語で喋り始めたところだった。

 洋子は、ブログを書く習慣もなく、食事の度に一々写真を撮ってネットにアップしたりする心理が今ひとつわからない“古い人間”だったが、何をするにしても、何に驚いても、「ねぇ、みて!」と母親を振り返るケンの様子から、そういう性質は、人間にそもそも備わっているのかもしれないと思うようになった。

 しかしケンは、不特定多数の誰かに見ていてほしいというのではなく、母親である自分にこそ見てもらいたいのだと洋子は信じていた。自分も見ていたかった。夜寝る時には、必ず「ママは?」と探したし、デイケアに迎えに行っても、自分を見て駆け寄ってくる時の表情は、他の誰にも見せないものだった。

 一緒に過ごす時間が半分になってしまうというのは寂しく、ケンが、リチャードとヘレンとの新しい家庭で自分を探して泣いている姿を想像すると、かわいそうでならなかった。どんなに心細いだろう? ヘレンは出産の経験がなかったが、本当にそういう時、ケンをあやしてやることが出来るのだろうか?

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