その愛の入手経路に、不正があったというならば、話は別だった。

2年前の洋子との別れは、現在の蒔野の妻である早苗の"不正"があってのことだったー……。
ずっと思っていた蒔野の愛が、早苗の方へ向かった時に彼女が思ったことはー…?

 年齢も随分と下で、マネージャーと音楽家という関係の名残は、なかなか対称的と感じられなかったが、一足先に向こうは、自分を愛し始めているのだった。凡そ、今より悪い時もあるまいという、人生のこの時に。自分も愛することが出来るだろうと蒔野は思い、そうではなく、今自分が彼女に抱いている好感に、そのまま愛と名づけるべきだと考えた。洋子から得られていたものは、一切、求めるべきではなく、彼女の存在と共にそれはもう忘れるべきだった。……

 蒔野から、愛を打ち明けられ、結婚を願い出られた早苗の感激は、喩えん方もなかった。

 しかし、ただそのことだけをひたすら夢見てきたはずなのに、いざ実現してみると、そんなはずはないという気がした。自分がこんな幸福に恵まれたことが信じられなかった。周りにとっても、不可解に違いない。—が、その愛の入手経路に、不正があったというならば、話は別だった。

 早苗の心の中には、正直なところ、洋子にすまないという気持ちはあまりなかった。

 蒔野の彼女への思いをふいにしてしまったことへの罪の意識も薄かった。しかし、蒔野から寄せられている全幅の信頼に、自分が決して値しない人間であるという自覚は、大きな苦しみとなった。

 彼は今、確かに三谷早苗を愛している! しかし、その三谷早苗とは、自分とはまるで別の人間なのだった。それは、あの夜、あまりに破廉恥な方法で彼を愛する人から引き裂いた三谷早苗ではなかった。その贖罪のためではなく、言わば純粋な愛から、ひたすら彼に尽くし、彼のためにその恩師と娘家族のために尽くしてきた三谷早苗だった!

 彼女は何よりも、その発覚を恐れていた。そして、騙し続けているという意識は、次第に彼女の自己嫌悪を膨らませていった。

 早苗は結局、あの罪の夜に突如として閃いた自己弁護へと立ち戻らざるを得なかった。—つまり、罪の総量という考え方だった。

 一生涯、完全に無垢なまま生き続けられる人間など、この世の中にいるはずがなかった。誰もが罪を犯すならば、結局のところ、それは重いか、軽いかでしかなかった。

 自分はこれまでの生真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。今後も犯すことはないだろう。自分の罪が飽和するには、まだ随分と余裕があるに違いない。長い人生の中で、ほんの一瞬の出来事だった。ただの出来心。それが果たして、自分という人間の本質だろうか? この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか? そういう自分は、必ずしも蒔野が愛している三谷早苗と懸け離れているわけではないのではあるまいか?

 早苗にとって予想外だったのは、蒔野の音楽的な不調が、むしろ洋子と別れてから一層深刻になり、到頭、演奏活動そのものをも止めてしまったことだった。

 手足口病の後遺症も完治し、もうすっかり両手の爪が生え替わったあとでも、蒔野はギターを手にしようとはしなかった。勿論、そのことを尋ねもしたが、「少し時間が必要なんだよ。」と言葉少なに言うだけだった。気分を変えようとしているのか、普段は会わない人に会ってみたり、ふらりと一人旅に出たりしたが、一度、もうかなり秋も深まった頃に、唐突に輪島に出かけてしまった時には、早苗は虫が知らせたように大騒ぎして、呆れられたことがあった。

 孤独に藻掻き続けている蒔野を見守りながら、彼女は、本当は、自分こそが負うべきだったはずのあの罪の報いが、一種のお伽噺的な手違いによって、夫の身に降りかかってしまったような動揺を覚えた。

 だからこそ、武知とのプロジェクトのために、蒔野がまたギターの練習を再開したことは、早苗にとってほとんど“赦し”を与えられたかのような喜びであった。

 蒔野は、早苗が冷房のスイッチを入れた音で目を覚ました。

「ごめん、起こしちゃった?」

「……今何時? ああ、もうこんな時間か。」

 蒔野は、明るい窓の外に目を遣って、汗ばんだ体に吹きつける天井からの冷気を心地よく感じた。窓が大きいので、初夏でも明け方はかなり暑くなる部屋だった。

「パンでも焼くよ。」

 蒔野はそう言って、食パンを二枚、トースターに入れて、冷蔵庫のペリエを飲んだ。

 明け方、《アポロ13》を見ながら眠りに落ちてしまったのだったが、その中で、テレビのニュース解説者が語っていた一つの台詞が、目覚めのあとも、しつこく頭に残っていた。

「……大気圏に無事突入するには、2・5度の幅の回廊を通らなくてはなりません。角度が急だと摩擦熱で炎上しますし、浅すぎると、池に石を投げた時のように、外に弾き飛ばされます。……」

 蒔野は、そのアポロの大気圏再突入のイメージから、唐突に、洋子との別れを思い出したのだった。あの夜の東京での再会も、そんなことだったのだろうか、と。

 そもそもが、無謀な愛だった。その成就のためには、それぞれの思いが、ほとんど2・5度しかないような隘路を潜り抜けねばならなかったのだろう。そして、互いの運命は、燃え尽きたというよりも、むしろ、「池に石を投げた時のように」弾き飛ばされて、そのまま二度と、交わる機会を失してしまったのだった。

 蒔野は、たかだか、二人の男女の別れのためには、幾ら何でも壮大すぎるそんな比喩を、必ずしも持て余さなかった。

 極大なものは極小である、といった神秘主義的な撞着語法には、実感のための秘密の出入口があった。

 アポロの隊員が月から眺めた地球の映像を見ながら、蒔野は、この広い惑星の上で、洋子に出会うための確率といったようなことを考えた。それは、人為的には決して実現不可能な出来事であり、しかし、その偶然を、まるで必然であるかのように繋ぎ止めておくために、人間には、愛という手段が与えられているのではないか。

 祖父江が倒れた夜のすれ違いから、別れに至った数日間へと記憶は広がり、更に出会ってからの八カ月間、まだ高校生だった頃の自分の演奏を彼女が初めてパリで聴いて以来の二十年間、そして、二人が生きてきた四十年ほど、二人の両親が出会い、愛し合った過去、その彼らがまた、生まれ、成長した年月、……と、彼はその暗闇に浮かぶ地球を見つめながら、時の流れをぼんやりと考えた。

 そのどこかで、ほんの少し何かが違っていたならば、世界は今のような姿をしておらず、自分は洋子と出会うことなく、そもそも二人は、存在さえしていなかったのかもしれない。

 蒔野は、自分がどんなに洋子を愛していたかを、改めて思った。

 そして、寝つかれない夜更けの不用意な、軽はずみな内省から、今でもどんなに愛しているかを強く感じた。

 恐らくそれは、彼自身が音楽家としての自信を回復しつつあるからであり、まさにそのために、酷く不安だからだった。

 自分の演奏を、いつの日か、また洋子に聴いてもらいたいと、蒔野は別離後、初めて思った。そして、そうした心境にまで辿り着けたことを喜んだ。その反面、今の不安を彼女に打ち明けたかった。他の誰でもなく、彼女に聴いてほしかった。

「焦げ臭いけど大丈夫?」

 蒔野は、早苗の声に我に返って、慌ててトースターを止めに行った。パンは既に黒焦げだった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません