その悪い奇跡のような幸福に、どことなく薄気味悪さを感じた。

早苗は2年半の間、蒔野が再びギターを手にとる瞬間を誰よりも待ち望んでいた。
しかし彼女は、2年前に自身が犯した過ちを思い返すー……。

 一度だけ、蒔野から電話があって、こちらの携帯に洋子から連絡はなかったかと確認を求められていたが、彼女はそれに対しては、嘘を吐く必要もなく、ただ「ありません。」と答えただけだった。そして、信じ難いことに、彼女の犯したこの哀れな罪は、どうやら露見しないまま、現実をすべて彼女の思惑通りに変えてしまったらしかった。その経緯は今以て謎だったが、つまり、蒔野と洋子とは、あの夜を機に、恋人同士ではなくなったのだった。

 早苗は、その悪い奇跡のような幸福に、どことなく薄気味悪さを感じた。

 きっといつか、すべてを蒔野が知る時が来る。その恐ろしい不安は消えることがなかったが、一月経っても、二月経っても何事も起きず、彼女は、自分の罪が、知らぬ間に、もう半ば“無かったこと”になりつつあるのを知った。誰も気づかなかった。そして、これからももう気づかれることはないだろう。そう考えて、彼女は罪悪感を横目で見つつ、やはり安堵の方に先に手を伸ばした。

 蒔野は、洋子と別れた後、直ちに早苗を愛するようになったわけではなかった。

 グローブの野田に発破をかけられるがままに、《この素晴らしき世界〜Beautiful American Songs》のレコーディングに集中し、休憩時間には、例によって与太話でスタッフらを笑わせていたが、どこか、心ここにあらずといった雰囲気だった。

 気が緩むと、その相貌には、すぐに「待っている」人の重苦しさが滲み、やがて自分でハッとしたかのように、それを空虚な、唐突な快活さで追い払った。

 早苗は、そういう彼を日々目にしながら、ただ早く時が経つことだけを祈っていた。どこか、他人事のように彼を憐れんでいることもあれば、自分の人間性を恥じることもあった。苦しまなくて良いはずがなかった。しかし、その胸の痛みこそは、彼女にとって一種の贖罪となった。

 彼のために自分が何をすべきかわからず、野田が進めていた《この素晴らしき世界》のプロモーションに、もう反発することもなく専念し、他方で、祖父江のギター教室の雑務を手伝うことから始めて、祖父江の介護と奏の育児にも協力するようになった。

 蒔野は気遣いつつも、どこで止めるということもないまま、彼女の厚意を受け容れ、気がつけば、あまりに多くを彼女に負担させていたことを心配した。蒔野の身の回りの世話を焼きたがるというのではなく、祖父江に対して献身的であったことが、却って彼女を身近な存在とさせていった。

 洋子との関係が深まっていた時期に、マネージャーとしての「三谷」に募らせていた不満も、いつの間にか消えていて、ある時から蒔野は、彼女に自宅の鍵を渡して、留守中の荷物の出し入れを任せるほど信頼するようになっていた。

 早苗はそういう時、彼の不在の部屋に足を踏み入れて、何かしら、普段接している時には感じない、女の体の名残のようなものに触れてしまうことがあった。

 恐らく、一人ではなかった。それは、室内に籠もった、そこはかとない残り香のせいかもしれず、男の一人暮らしにしては、あまりに整頓されたリヴィングの景色のせいかもしれなかった。

 早苗は、そんなふうに敏感に感じ取ったものに対しては、動揺を禁じ得なかったが、それでもなぜか、洋子に感じたような激しい嫉妬と劣等感に苛まれることはなかった。

 最初から深入りする気のない、束の間の関係なのだと思っていたからかもしれない。蒔野を—彼の心を—奪われてしまうという焦燥に苦しむことがなく、ほとんど手さえ触れたことがないのに、自分こそは、今は彼に最も近い存在なのだと自然と信じられた。

 手足口病で爪も剥げかかり、掌の皮がボロボロになっている蒔野の手を見ていると、こんな状態では、想像しているようなことは何もないのかもしれないとも思った。深く愛し合っているならともかく、こんな悲惨な手に、軽い気持ちで抱かれる女などいるだろうか?

 思うに、洋子は例外的な存在だった。

 自分は誰に対しても闇雲に嫉妬して、あんな恐ろしいことをしてしまうわけではない。客観的に見れば、蒔野は明らかに、あの時期、演奏家としての自分を見失っていた。

 洋子の存在が彼にとって良い作用を齎さないということは、誰かが冷静に見極めなければならなかったのではないか。そんな苦し紛れの理屈を捻り出して、仕舞いには、こう自分に言い聞かせるのだった。—自分がその役目を果たした以上、何があっても、蒔野の復帰を実現しなければならない、と。……

 早苗がひたすら待つことに徹していた半年を経て、蒔野はさすがに、彼女の自分に対する肩入れの意味をもう疑わなかった。最初はまさかと打ち消していたが、よくよく周りを見てみれば、どうやら気づいていないのは、彼一人であるらしかった。

 自分は彼女に愛されているのかもしれない。それも、もう随分と以前から。—そして、洋子を不可解なほど意識していた早苗の態度も、振り返ってようやく理解したのだった。

 奇妙なことに、蒔野は、早苗を恋愛相手として、ただの一度も意識したことがなかったが故に、却って彼女と結婚するという発想へと飛躍することが出来た。

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corkagency 彼女は罪悪感を横目で見つつ、やはり安堵の方に先に手を伸ばした。# 4年以上前 replyretweetfavorite