体の内側の明かりの消えていた部屋に、照明が灯ったような感覚があった。

師である祖父江に、再びギターの演奏を再開することを話した蒔野。
ようやく、1年半ぶりに楽器へと手を伸ばすことができた蒔野だが……。

 そういう世界が、こことは違った、どこか別の場所に存在していて、その幸福に浸っている自分というのも、いるのかもしれない。何の不思議もなく、まさか、あのまま彼女と別れてしまった世界を生きている自分が存在していることなど、夢にも考えたことがなく。自分はなぜか、貧乏クジを引いてしまって、そっちの世界ではなく、この物寂しい世界の方を割り振られてしまった。—蒔野は、池の水面に、陽画のように映し撮られた青空と垂れ込めた木の枝の影を見つめながら、そんなSFめいた空想に束の間浸った。

 祖父江は、蒔野の方を向いて、「ゆっくり、やってください。」と、諭すというより、懇願するような口調で言った。蒔野は、何か頼まれたのかと思って、身の回りに目を向けたが、すぐにギターの練習の話だと気がついた。

「ええ、まあ、そうもいかないんですけど、焦らずに、ええ。……ギターに触らなかった間に、先生が昔からよく仰ってたアランの言葉を噛みしめてました。『尊ばれないことは忘れ去られる。これは、我ら人類の最も美しい掟の一つだ。』—不安のせいですかね。演奏家には、なかなか手厳しい掟ですけど、やっぱりこれは真理なんでしょう。このところ、新しい才能の出現を僕も目の当たりにしていて、自分の演奏のどこに一体、尊ぶべきものがあるのか、考えていました。もっと高いところを目指して、音楽に取り組むべきなのに、それがなかなか、……」

 祖父江は少し険しい目になって、顔の右半分を苦い悔恨に歪めながら言った。

「私は、そういうことを蒔野さんに言いすぎたかもしれない。あなたのような偉大な才能は、もっと自由でいいんですよ。私の教えたことは、子供の頃の思い出として仕舞っておいてください。」

 蒔野は慄然として、しばらく言葉を発せられなかった。そして、少し頬を緩めて、

「先生は立派です。僕の尊敬は変わりません。でも、……ええ、ゆっくりやります。」

 と言った。祖父江は、ただ、微かに首を横に振っただけだったが、もう一言、どうしても言わねばならないというふうに付け加えた。

「早苗さんを大切にしてください。あなたの人生にとって、掛け替えのない存在です。」

 蒔野は、まるで先ほど、洋子のことを考えていたのを見透かされたかのようなその忠言に動揺した。そして、唇を固く結んで頷くと、自分に言い聞かせるように、「……ええ。」と言った。

 練習を再開した日、蒔野は、長年、演奏の前に自らに課してきた独自の柔軟体操を、最後のためらいを説き伏せるようにして入念に行った。

 腕だけでなく、呼吸を意識しながら全身を隈なく解してゆく。手足口病に罹って両手の爪が剥がれてしまい、ギターを弾けなくなってからは、祖父江の教室の生徒たちにも、その体操を教えていた。

「無理しちゃ駄目だよ。違うやり方が良かったら、それでもいいから。大事なのは、日常生活に最適化されてる体を、演奏前に一度、体そのものに戻してやることだから。足はしばらくは、駅の階段を駆け上がるんじゃなくて、ただ楽器を支えて、音楽そのものを支えるために繊細であればいい。必要な箇所に、必要なだけの力がスムーズに出入りするように、余計な強ばりを解いてやるような感じ。—わかる?」

 大体みんな、半信半疑で、一応言われた通りにはするものの、自分では取り入れないだろうという表情だった。こんなヨガのような、整体のようなことを、この人はいつも楽屋でひとりでやっているのだろうかと、笑いを堪えきれない風の者もあった。そして、実際に楽器を手に取ってみて、その効果に驚き、試しに録音した自分の演奏に目を瞠るのだった。

 二階の練習部屋で柔軟体操を終えると、蒔野はあまり長くならない程度に目を閉じて息を整えた。それからようやく、楽器に手を伸ばした。三十代後半に一番よく弾いたフレタで、ネックを握って持ち上げると、体の内側の明かりの消えていた部屋に、照明が灯ったような感覚があった。

 最初は時間をかけてスケールの練習から始めるのが、蒔野が幼少期から墨守してきた習慣だったが、この日は、軽く指慣らしをして、いきなりヴィラ=ロボスの練習曲第一番を弾いてみた。続けて第三番を演奏し、苦笑したり、首を傾けたりしながらどうにか最後まで辿り着くと、天を仰いで声もなく笑った。そして、下を向くと、たったそれだけで息を切らしたような哀れな両手を見つめた。

 酷い有様だった。しかしとにかく、目の前の楽器を弾けないというあの耐え難い苦しみは、終わったのだった。それを実感し、安堵すると、彼は、自分がつい今し方まで捕らわれていた恐ろしい場所を振り返った。そして、もう二度と戻りたくないと心底思った。

 皮が薄くなってしまった指先には、弦の摩擦の初々しい痛みと熱が残っていた。どこか照れ臭いような喜びが、全身に染み渡っていった。

 —なぜ一年半もかかってしまったのだろう?

 まったく指が動かないのではと恐れていたので、案外、覚えているもんだなと、蒔野は、自分にというより、人間の体そのものに感心した。

 勿論それとて、田んぼのぬかるみを、転ばずに端から端まで歩けたという程度のことだった。

 舞台に立つまでの道のりは、無限のように遠かったが、彼はふしぎと、悲観的な気分にならなかった。やっと再出発が切れた。自分が失ってしまったものに対しては、どこか清々した感じさえあったが、それは、半ば居直りのような心境であり、同時に、何とかなりそうだというその日の手応え故だった。

 さっぱりしたと、彼は後に、何度かインタヴューで語っているが、些か嫌みな韜晦のようでありながら、それもまた本心だった。

 蒔野はその日から、毎日、十時間前後の「特訓」を三カ月間継続した。

 大半の時間は基礎練習の反復で、内容は、ほとんど教則本を書くように合理的に、網羅的に計画したが、取り組み方としては、「ひたすら弾く」といった手探りの実感頼りのものとならざるを得なかった。

 蒔野は、祖父江のリハビリに付き添って、よく専門医と脳と体との関係についてを—例えば、思考が保存されている「陳述的記憶」という領域に対し、身体の運動が保存されている「非陳述的記憶」と呼ばれる領域があることだとか、脳から出される信号が、神経を通っていかに指先に伝えているかといったことなど—話していた。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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