寮で住む部屋を自由に選べるとしたら、トイレから近い方と遠い方、どちらがよいだろうか。この選択は、人それぞれで違ってくるだろう。気分の問題は別として、現実的には、トイレに近い方が、生活する上では便利と思われる。
寮のトイレは、入口の反対側、各階の一番奥にあった。入口寄りの部屋から見れば、100メートル近く離れていて、ずいぶんと遠い。
私は駒場寮の建物や設備について、補修がされないことを別にすれば、ほとんど何の不満もなかった。しかし、もし設計者の内田祥三先生(建築家、戦時中の東京帝大総長、本書第2章で詳述)に感謝を述べる機会があるとすれば、一点、
「寮の入口側にもトイレを設けておいていただいていれば、なおありがたかったです」
と申し添えたい。そうであれば、多くの学生は助かったはずだ。もっとも、設計前の段階で、一高生たちは意見を述べる機会はあったので、当時の学生にとっては、たいした問題ではなかったのかもしれない。
寮生の中には、遠いトイレにまで行くのが面倒であるとか、開放感があるとか、旧制一高以来の伝統だとかいう理由で、寮の部屋の窓を開け放ち、窓枠に立って、「雨」を降らせる者がいた。これを「寮雨」と呼ぶ。
寮雨粛々襟元寒し 月が見かねて雲隠れ
戦前、旧制高校生たちの間で広く流行した「デカンショ節」にも歌われている通り、寮雨はポピュラーな文化だった。これを学生らしくて面白いと思うか。あるいはけしからんと思うか。旧制高校の生徒たちの倫理観からすれば、罪の意識は希薄だったようだ。
1938年9月20日、一高にヒトラー・ユーゲントの一団が訪れた。その際、一高生たちは「バカヤロー」の声をもって迎えたと伝えられている。関連して「一高生たちはヒトラー・ユーゲントたちに寮雨を見舞った」という伝説もあるが、さすがにそれは史実ではない。
一高教師だった竹山道雄は、戦時中に寮主任だった頃、寮雨は「失礼」だからやめようと提案してみた。対して寮生は、竹山の同僚の木村健康によれば、このような反論をしたという。
<「およそ道徳、風俗、習慣、礼儀、作法などが時間的空間的、換言すれば歴史的場所的に変化することは、文化哲学歴史哲学の初歩的知識に属することであります。したがってこの寮という場所と現在という時を基準として、寮雨が失礼であるか否か、すなわちそれが礼儀に叶うものであるか否かは判断さるべきであります。しかるに現在この寮においては誰一人として、寮雨を失礼だと思っているものはありません。それ故に寮雨は礼儀に反することではなく、したがってこれを廃止する必要はないのであります」
(木村健康『東大 嵐の中の四十年』1970年)>
理屈が苦手であった竹山は当惑し、学生に対して反論することはできなかった。
後に軍部が寮の査察に来る直前、難癖をつけられぬよう、竹山たちは寮をきれいに見せようと努めた。
<各寮のまわりを掃除したのは寒い日であった。道具は何もなかったから、手でひろった。寮雨が緑色に泡だったまま凍って、その中にガラス壜のかけらが埋っていた。それを指でつまんで引きだした。寝室の窓の下ごとに並んでいる三角形のくぼみの何だか胸にしみるようなアンモニア臭は、どうしたら消せるかと考えたが、方法はなかった。(竹山道雄「昭和十九年の一高」『向陵時報』1946年12月)>
いろいろな意味で、竹山のわびしい気持ちが伝わってくるようだ。
寮雨は、高いところから放つほどに、気持ちがいいそうだ。ある寮生は酔って、明寮の屋上から寮雨を降らせようとした。しかし明寮は他の棟と違って、戦時中に建設がストップしてしまい、屋上の端には柵がない。寮生は足をすべらせて下に落ち、不幸にして亡くなった。
戦後、一高以来のバンカラな寮の文化という意味でも、寮雨を面白がっている者は多かった。しかし、寮の規則としては、寮雨は一応禁止されていた。寮委員会内の査察部では、しきりと寮雨を取り締まった。それでも不心得者は後を絶たない。1956年には、寮内広報紙に以下の報告が掲載されている。