自分の将来にこんなことが待ち構えていようとは、あの頃は夢にも思っていませんでしたけど。」

意見の食い違いが、お互いを傷つけ合う洋子とリチャード。そして、彼が切り出したのは……。
一方、蒔野は1年半ぶりにギターへと向き合い、再び舞台へ上がることを決めたのだった。

 洋子は、リチャードの言い分に納得しなかったが、彼が最後に言った言葉には、胸をえぐられたような痛みがあった。

「誰と結婚しても」と強調した時、彼が蒔野のことを当てつけているのは明らかだった。そして、その効果は、彼が咄嗟に期待したよりも遥かに大きかった。

 洋子の脳裏には、蒔野から別れを切り出された、あのメールの内容が蘇った。

「あなたには、何も悪いところはありません。」と彼は書いていた。それは、ヘレンが彼女の「美しさ」を笑い、リチャードが「君は自立している」と皮肉を込めて言うのと、複雑に呼応し合っていた。そして、「ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。」と、蒔野は続けたのだった。

 彼もまた、苦境にあって、自分をその傍らで見守り続ける存在としては、信用しきれなかったのだった。リチャードの仕事の内容だけが問題だというのではないのかもしれない。

 それほど、身勝手に、独善的に生きているつもりはなかった。しかし、愛し愛される幸福に恵まれるためには、君は冷たすぎるのだという指摘は、自分一人で跳ね返すのは難しかった。

 年が明けて、二月の酷く雪が降ったある日、リチャードは、思い詰めた表情で、ヘレンとの関係を洋子に告白した。激怒することもなく、ただ黙っている妻を見て、彼は続けて、離婚してほしいと言った。

 蒔野聡史と武知文昭との新しいデュオのコンサートは、二〇一〇年春の埼玉を皮切りに、夏までに全国八カ所で催される計画だった。武知にとっては久しぶりのツアーで、その張り切りぶりは、面と向かって会っている時だけでなく、日記のようにマメに更新している彼のブログからも窺われた。

 台北で最初にこの話をしてから、本番までには七カ月の準備期間しかなかった。

 一年半もギターに指一本触れていなかった蒔野は、復帰までには、最低でも一年は必要だろうと慎重に考えていた。早苗と結婚した後、木下音楽事務所の担当は、五十嵐という若い男性社員に変わっていたが、蒔野の復帰に関しては、社長も直接に関与していた。勿論、グローブの野田もミーティングには必ず出席した。

 準備期間が短すぎるという不満を、蒔野は、日程が提示された直後から訴えていたが、現実を語っているつもりでも、口を衝いて出るのが、一々、「出来ない」という否定的な言葉ばかりなので、仕舞いには、自分でそれにウンザリしてきた。

「僕が例えば、ジャズ・ギタリストみたいなアドリブの世界の人間なら話は別ですよ。コンディション次第で、弾けないフレーズは無理に弾かなくていいんですから。けど、僕はクラシックの世界の人間ですからね。曲の中のどんなフレーズでも弾けるようにしておくためには、一定以上の水準で自分を維持してないといけない。フィギュア・スケートの選手が、調子が悪いから、トリプル・アクセルをダブル・アクセルにするみたいなことは出来ないんですよ。……いや、わかってるとは思いますけど。」

 担当者らは、そうまで言われると、二の句が継げずに黙り込んでしまった。蒔野も、しばらく腕組みしたまま口を噤んでいたが、やがて、腹を括ったように息を吐くと、

「ま、いいや。—やりましょう、じゃあ、その日程で。」

 と、急に態度を変えて一同をぽかんとさせた。

 そのあとも、しばらくはぶつくさ不平を言っていたが、そういう姿には、むしろしばらく見なかった彼らしさが感じられた。ひょうげたような話しぶりだったが、一度舞台に立てば、きっとまた、恍惚とするほど完璧な演奏を聴かせることだろう。彼の復活のためには、一つの吉兆のようだった。

 一年半というのは、蒔野だけでなく、周囲の演奏家も誰も経験したことのないブランクの長さだった。

 蒔野は、ようやく老人介護施設への入居が決まった祖父江が、旧朝香宮邸の庭園美術館で催されているアール・デコ展を見に行きたいというので、介添えをしながら、その話をすることにした。

 祖父江はまだ会話が不自由で、展示を見終わったあとは、美術館の名前の由来にもなっている広々とした庭園を散歩しながら、蒔野が一人で喋り続けた。

「しかし、アール・デコっていうのは、パリで見るとあんなに豪華で色気があるのに、日本に持ってくると、どうしてこう貧相で、ジジ臭いんですかね? ここは相当がんばってる方ですけど。—やっぱり、木を使うせいでしょうか。あと、ステンレスを組み合わせると、また安っぽく見えるなぁ。」

 蒔野がそんな調子で面白おかしく放言するのを、祖父江は、ようやく紅葉の兆しが見えてきた木々をしみじみ眺めて歩きながら、ふん、ふんと目にだけ表情を窺わせて聴いていた。

 四十分ほどかけて池の畔のベンチまで辿り着くと、蒔野は祖父江と一緒に腰を下ろして、しばらく黙って景色に見入った。よく空が晴れ、少し肌寒かったが、風はなく、足許のすすきはそよとも揺れなかった。

 蒔野は、武知と一緒にツアーに出るために、またギターの練習を始めたという話をした。

 祖父江は、ああ、と表情を和らげて、唇を噛んでしまいそうになりながら、それは良かった、とだけ短く言った。

「いやぁ、もう怠けてた分、大変で。今なら先生に習い始めた頃の方が、まだ巧いですよ! 自分の将来にこんなことが待ち構えていようとは、あの頃は夢にも思っていませんでしたけど。……」

 蒔野は、懐かしそうに頭を掻いて笑ったが、ふと振り返ると、祖父江が泣いていて驚いた。麻痺していない顔の右半分だけが震えていて、左半分は無表情のままだった。

 祖父江が、蒔野がギターに指一本触れなくなってしまったことを、どんなに心配しているかは、奏から何度か耳にしていた。しかし、プレッシャーになってはいけないからと、娘には固く口止めをしているらしかった。

 蒔野に自分の介護を手伝わせていることを酷く心苦しく感じていて、しかし、誰かの手を借りなければ、その負担は、二人目の子供が生まれたばかりの娘にすべて伸しかかってしまう。

 蒔野は、祖父江のその葛藤を察し、「いやいや、先生も弟子が多くて、僕もこのところ嫉妬してましたから、独り占めに出来て喜んでるんですよ。」などと笑い飛ばしていた。早苗は、そうした状況の中で、祖父江の介護だけでなく奏の子供の面倒や買い物の手伝いなどを、嫌な顔一つせずに引き受けた。蒔野が、彼女に惹かれていったのは、そうした姿を見ていたからだった。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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