「愛する少年とその家を守る」のが、武士の常識
親が子供を念者に差し出すという話で思い出すのは、毛利元就と3人の子供のことです。
子だくさんで、11人の子宝に恵まれた元就ですが、なかでも正妻「妙玖(みょうきゅう)」との間に生まれた、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人を愛しました。矢に託して、兄弟和合を説いた、3本の矢の逸話は有名ですね。
後に、中国地方の覇者となる元就ですが、大酒で夭折した兄・興元の跡を襲って、毛利家の当主になった頃は、吉田郡山1万石程度の小領主にすぎませんでした。独立など夢のまた夢で、初めは尼子氏、後に大内氏の足下に与しました。
大内氏に従属している間、元就は、大内氏の当主だった義隆に、子供が成長すると順々に目通りさせたのですが、隆元と隆景の2人は義隆の手元にとどめ置かれ、小姓にされました。1人だけ〝返品〟された元春くんの心の傷については少々気になるところですが、義隆は2人をかわいがりました。なかでも隆景は、『陰徳太平記』によると、「又四郎隆景は、姿かたちが美しかったので、義隆卿からの男色の寵愛は格別なものだった」と特に愛されました。
2人の子供の文字通りの献身によって、元就は大内氏の信頼を勝ち得ることができたようです。尼子が毛利家の本拠、吉田郡山城に攻め寄せたとき、義隆は1万もの大軍を送って、元就を窮地から救っています。
また隆景本人も、小早川本家を乗っ取る工作のとき、義隆から手厚い支援を受けました。念者は寵愛する若衆とその家を庇護し、恩恵を与えるというのは、当時の常識だったようです。
また、副産物として、念者の家の実情を知ることも出来ました。隆景は成人して、実家に戻ったとき、「大内家はもうすぐ滅亡します」と、元就に報告しています。
とはいえ、隆元にとっても、隆景にとっても、義隆の臥所(ふしど)を温めた小姓時代というのは、そんなに忌まわしい記憶でもなかったようです。隆元も隆景も名前に「隆」があり、これは義隆からもらったものなのですが、義隆が横死し、大内氏が滅亡した後も、改名していません。
大内家の本拠、山口は当時「西の京都」と称されたほど、文雅(ぶんが)の香り高いところでしたし、義隆も嫡男の戦死によってロートル化する前は、「山口王」の名にふさわしい、英気溌剌(えいきはつらつ)とした人物でした。
隆元も隆景も、武一辺倒の元春より、人としての奥行が深い、知恵と優しさを感じさせる武将に成長しますが、それは山口での洗練された生活と、義隆の薫陶の結果もあったように思います。
少年からの愛情に答えて、男は少年とその家を守り、手厚い教育すら施す。だからこそ、親は喜んで子供を提供し、少年にとっても暗いひずんだ思い出とはならなかったのでしょう。
〝愛〟によって結ばれた家臣団
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