(寮誌に投稿された、麻雀興国論)
大学の寮に限った話ではないが、昭和の昔、男が共同生活を送る場所において、人気のある娯楽の代表格は麻雀だった。戦中時に駒場寮で暮らした、詩人で芥川賞作家の清岡卓行は、以下のように回想している。
<「二十歳のエチュード」を書いて自殺した原口統三君たちと廊下の電球からコードを引いてマージャンをやった。寮監役で、後に「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄先生に見つかったこともありました。先生はギロリとにらんだだけで見逃してくれたなぁ。>(『朝日新聞』1993年11月23日朝刊)
明治以来の長い自治寮の歴史の中で、この時期だけは軍部からの圧力をかわすため、「寮主任」という名で、教師が寝泊まりをしていた(このことは本書、第2章にて詳述)。
南極の昭和基地でも、麻雀は人気だった。
ただし麻雀ぎらいの西堀栄三郎(第1次南極越冬隊長、当時京都大理学部教授)はあまりいい顔をしなかった。西堀は隊の11人の中では最年長の54歳で、若い隊員たちからは煙たがられる役回りだった。西堀の命令で、連絡船「宗谷」の中では麻雀禁止だった。昭和基地では立見辰雄(当時東大助教授)が、ためしにやってみたい、と許可を求めて、その後はなし崩し的に解禁となる。
西堀は日誌の中で、綿々と愚痴を綴っている。
<(1957年5月19日)きのうからブリザードつづく。雪は重い。きょうは休暇の最終日で日曜日だというのでみな朝寝。便所に雪入り、除雪。自分で朝食つくり、昼食と兼用。マージャン大はやり。
休み中何もできなかったというが、マージャンだけは皆勤か。この基地からマージャンを追出すことは出来ないか? マージャンをやらねば慰安にならないのか。もっと真剣な気持ちになれないのか。そんなにムキになる必要はないという、今に見ろ、きっとひどいことになるぞ。国民に対する義務を考えなければ……。
わたしは、マージャンというものは、はっきりいって、きらいである。それは宿命的なものがある。他人がマージャンをしてるのも好かない。わたし自身、マージャンの仕方はもちろん知りもせぬし、したこともない。マージャンというもの自身が、亡国的な遊びであるという先入感が、わたしにはあるのである。
(中略)
日曜日になって、みなが何を喜ぶのかしら、と思ったら、まず朝寝である。それも、ほんとうに昼ごろまで寝ている。それから、起きて出て来るなり、すぐマージャンだ。日曜日は昼間からやっている。それで結局、みなの趣味というものは、寝ることとマージャンだけかということになる。そう思うと、わたしは情けなくなってくるのだ。せっかくこんな宝の山へ入って、何でも調べたらおもしろいことが山ほどあるのに、ガチャガチャと、それもマージャンばっかりして、せっかくの一世一代のチャンスを浪費してしまう。かわいそうだなあ、と思う。>
(西堀栄三郎『南極越冬記』(岩波新書、1958年)
西堀の『南極越冬記』はベストセラーとなり、東大でも多くの学生に読まれた。
1961年、駒場寮の中央記録(寮の正式な記録を残す係)だった寮生は、個人的見解として、西堀の「麻雀亡国論」に賛同の意見を残している。
<寮内を風靡する麻雀の旋風はどう説明すればいいのか。自分は西堀栄三郎氏が、麻雀は亡国病である、と書いた文章を読んだ事があるが、確かにそんな感じがする。浪費される青春の貴重な時間。いかにも頽廃的なムード。>
このときの中央記録氏はずいぶんと几帳面で、当時の寮内外の細々とした記録を、丁寧に書き残していた。60年安保の後のことで、確かに寮内の雰囲気は、それまでとはずいぶんと変わっているような印象を受ける。
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