東大駒場寮物語

プロローグ】1993年春、駒場

「古く、汚く、キテレツ……それでも彼らは、自分たちの居場所を守ろうとした」。明治、大正、昭和の昔から、著者が過ごした1990年代、そして廃寮までの駒場寮の歴史と、そこに生きた学生たちを描くノンフィクション『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)が今冬発売となります。本連載では、オオスキトモコさんによる廃寮直前の駒場寮の写真を交え、本文の一部を抜粋し、ご紹介していきます。


(写真提供:駒場寮同窓会)

 「松本君、これから寮委員長室でコンパやるんだけど、みんなで一緒に飲まない? OBも来てるしさ」

 4月のはじめ、駒場寮の北寮の前に、美しく桜が咲く季節だった。ベンチに座って、ゆるい目つきをした野良ネコたちにえさをねだられながら、甘い倦怠感にひたっていた私に声をかけてくれたのは、駒場寮生たちからマッキーと呼ばれている、寮委員長の牧野祥久さんだった。「寮委員長」と言っても、大学の教員や職員が務める、管理人や舎監のような立場の人ではない。マッキーは、新入寮生の私よりは1学年上だが、同じ東京大学教養学部の学生である。

 マッキーは背が高くて細い人だった。寮内だけではなく、キャンパスの中でも見かけてもよく目立った。もしかしたら、90年代を通じて、駒場で一番有名な学生といえば、マッキーだったのかも知れない。マッキーは当時学部2年生で、24歳だった。ずいぶんと遠回りをして東大に入学したそうで、18歳、19歳がほとんどの、私たち新入寮生よりは、やや歳上だった。それでも私たちに対して先輩風を吹かすようなことは、一切なかった。

 浪人して東大に入学した私は、まだ酒が美味いとは感じられなかったが、寮生を中心とした酒の席は楽しいもの、とは思えるようになってきていた。

 寮委員長室は、北寮の2階にある。カーペットが敷かれてはいるが、ビラや本などが散乱して、座る場所を作るためにはそれらを片づけなければならないような、乱雑な部屋である。そこでは現役寮生だけでなく、何人かのOBが座って、紙コップで日本酒を飲んでいた。その中の年配のおじいさんは、大学の教授だという。言われてみれば、テレビで見たことがあるような気もする。

「人生は意気に感ずと申しますが……」

 東大教養学部の前身の、旧制第一高等学校時代の寮歌のような、そんなフレーズから始まる、教授の感動的なあいさつでもあるのだろうか。私は田舎者の新入生らしく、なんとなくそんな美しい場面を想像してみた。現実はまったく違った。

 いかにも温厚な老紳士に見えた教授は、酒が進むにつれ、次第に雰囲気が変わってきた。後で先輩の寮生に尋ねてみたところ、この教授は有名な酒乱だということがわかった。コンパには、堅い本を出すことで知られる出版社に勤務する、三十代ぐらいのOB氏がいた。隣りには、控えめでおとなしそうな奥さんを連れて来ている。したたかに酔って、前後不覚気味だった教授は、おもむろに、その奥さんのふとももに、頬ずりを始めた。これは現実の光景なのだろうか、と私は思った。

 「ちょっとちょっと」

 OB氏があわてて制止しようとすると、教授は表情を変えないまま、なにか一言つぶやいた。その直後、やにわに教授は、OB氏の顔に殴りかかった。OB氏の鼻から血が噴き出る。教授はなにかつぶやきながら、無表情でOB氏を殴り続ける。私は朦朧とした頭で、いま自分が目にしているのは、本当に平成の時代の日本なのだろうか、と思った。ああ、そういえば、この寮では、「平成」や「昭和」といった元号は、公式文書では使わないと聞いた。ならば、1990年代、21世紀を目前にして、と言わなければならない。

 OB氏が「もうお前の本なんて出してやらねえぞ」と叫びながら、教授につかみかかる。いい歳をした男同士が殴り合いをしている分には、止めるのは野暮なのだろう。周囲のOBたちはそれほど気にするようでもなく、やっぱりいつになっても、駒場の春はいいなあ、という顔をして、しみじみと酒を飲み続けている。


松本博文『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)、12月10日発売決定!


オオスキトモコさんによる、廃寮直前の駒場寮の写真集、発売中!
併せて駒場寮のミニ写真展を11月21日「デザインフェスタ」@東京ビッグサイトで開催!
(場所は西ホール・A-13になります)

 当時の寮委員長のマッキーは、穏やかな人だった。一方で昭和の昔には、対立するグループの学生のメガネを叩き割るような、武闘派の寮委員長もいたらしい。

「弁償しろ!」
 メガネを割られた学生がそう叫ぶのに対して、かたわらにいたある寮生は、とっさにこう言い放ったという。

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東大駒場寮物語

オオスキトモコ /松本博文

ムツゴロウ、野田秀樹、堀江貴文、小池龍之介など様々著名人が巣立った日本最古の大学寮は、著者が入学した93年には廃寮計画が進められていた。寮にまつわる数多の史実を交え描く、筆者たちの実録青春記。

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cafe_petit 自らの居場所を守ろうとした学生たちを描く、哀愁の青春ノンフィクション! 3年弱前 replyretweetfavorite

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cafe_petit 自らの居場所を守ろうとした学生たちを描く、哀愁の青春ノンフィクション! 約3年前 replyretweetfavorite

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