あどけない体のラインながらも、男性的な骨格と筋肉の付き方が、今からはっきりと見て取れた。
ケンにはよく、「ほら、わたしのかわいいダビデ君」と、からかうようにして日本語で話しかけた。ケンは、そう呼ばれると、まるで意味がわかるかのように、たどたどしく声を出して笑った。
ケンの二度目の年越しを、リチャードはタイムズ・スクエアのカウントダウン・イヴェントで迎えたがったが、前日に、そのタイムズ・スクエアで不審車騒動があり、洋子は難色を示した。外は氷点下で雪も積もっていて、ケンに風邪を引かせたくないというのがその理由だったが、それだけでなく、正直に自動車爆弾テロに対して、自分はまだ恐怖心が強いからと打ち明けた。
「大丈夫だよ、もうすっかり元気なんだから。」
リチャードが、洋子のPTSDに関して、面倒くさそうな態度を示したのは、この時が初めてだった。
リチャードは、休暇で一日中、家に閉じ籠もっていて話題が尽きたのか、出し抜けに、しばらく洋子の前では避けていた仕事の話をし始めた。年明けにも、顧問を務めていた金融機関が、連邦住宅金融庁から提訴されそうだというので、彼はその準備に忙殺されていた。
何も違法行為はしていないし、商品の説明も十分だった。今起きている事態は、褒められたものではないが、学者としての自分の仕事の範囲内では、何の責任もないとリチャードは改めて洋子に理解を求めるように説明した。洋子は、それについての態度を保留したままで、ただ、
「あなたは、それでいいの?」
と尋ね返した。
リチャードは、その一言というより、その時の洋子の目に、突如、感情を爆発させた。決して厳しく責め立てるわけではなく、むしろ、彼の人間性そのものを映し出そうとするかのような曇りのない瞳だった。彼女に対するほとんど憎しみに近い反発が、心中でわだかまっていたあらゆる感情へと延焼し、彼自身も、手が着けられなくなってしまった。
「君はどうかしてる。なぜ、そうなんだ? ケンがこうして元気に育って、夫婦がこれからますます協力しなければならないっていうその時に?」
「もちろん、あなたの力になりたいと思ってる。それは信じて。だけど、この子の父親になったからこそ、あなたの生き方も大事でしょう?」
「何度も言ってる。僕は学者で、現場の実態は知りようがないんだ。ジャーナリストでもない。中立的な立場で、客観的な理論を提供しているだけだよ。」
「報酬を貰ってる以上、中立的とは世間は見ないわよ。」
「君は、僕がこんな苦境に陥っているというのに、庇うどころか、追い打ちをかけようっていうのか? 呆れた話だ! 君がイラクから戻って、PTSDを患っていた時、僕は全力で君をサポートした。こんなことは言いたくないが、君の不安定な精神状態に付き合うために、僕が仕事の傍ら、どんなに神経をすり減らしたか! 恩に着せてるんじゃない。愛し合っているなら、それが当然じゃないかと僕は言ってるんだよ。君は妻であり、母親だろう? 家庭の中でまでジャーナリストとして振る舞うのか?」
「あなたやあなたの仕事を否定しているわけじゃないの。ただ、学者として、あなたが自分の倫理的な責任をどう考えているのか知りたいの。たとえ、あなたの言う通り、結果責任だとしても。ケンもかわいいけど、同い年の子供が、家を失って泣いている映像をテレビで見れば、心が痛むでしょう?」
「もちろん。そしてそれは、その子の両親の責任だ。君は僕に刑務所にでも行ってほしいのか? 僕が今、学者としての将来を失えば、ケンはどうなる? 僕の中には、自助という考えが染みついてる。そう言うと、君は僕を新自由主義者だと言って非難するだろうけど、これはこの国にあるもっと古い考え方なんだ。外国人の君にはわからないかもしれないけど。」
「スペンサー主義よ、歴史的には。新しくもないし、アメリカに固有の考え方でもない。」
「何?」
「……いいの。続けて。」
「これは僕の一家の家訓なんだよ。資本主義自体が、今や限界に達しつつある。この荒波の中では、何よりも自分自身がサヴァイヴすることが大事だ。この際だから言っておこう。僕の人生にとっては、僕自身と僕の家族が何よりも大事だ。僕だって、不遇な人たちへの憐憫はある。だけど、一体僕に何が出来る? 一個人の力なんて、ささやかなものだよ。君がイラクに行ったことで、現状が少しでも変わったかい?」
「何もしないのと同じじゃない。それがどんなにささやかだったとしても。あなたの仕事だってそう。」
「だけど、君がやらなかったらどうなった? 僕がやらなければ? 同じなんだよ。結局、誰かが同じことをするんだから!」
「わたしは、そう思わない。——あなたにとって仕事が大事なように、わたしにとっても、これまで自分がやってきたことが何だったのか、問われるの。その状況の中で、わたしなりに答えを求めてる。あなた自身の感情はどうなの? 開き直っていて平気?」
「君は矛盾してるよ。僕の心を心配してくれているのか? 僕がこの世界に対して責任を果たしていないってことを責めてたんじゃないのか?」
「どっちもよ。でも、責めてるんじゃない。教えてって言ってるの。」
「いいかい、僕は君が正しいことをしているから、イラクから帰ったあと、君のために尽くしたんじゃない。君を愛しているからこそだ。僕は君にもそうあってほしい。家族であるなら、たとえ間違いを犯したとしても、最後の最後まで味方であってほしい。」
「もちろん。でも、すべてを肯定するっていうことはまた違うでしょう?」
「君の中には、そういう冷たさがあるよ。ずっと感じてた。冷たい。そのせいで、僕はいつも不安だった。僕が人生で、本当に苦しんでいる時に、君は果たして僕の側に居続けてくれるだろうかって。——君は自立している。結構。君の生い立ちのせいかもしれない。誰と結婚しても、君はきっとそうだっただろう。僕には、百歩譲ってそれでもいい。だけどケンには、冷たい立派な母親であるよりも、どんな時でも大らかなあたたかい愛情で包み込むような母親であってほしい。」
(つづく)
平野啓一郎・著 石井正信・画
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