今の仕事は、あなたの天職?
仕事にやりがいを感じる人・感じない人
ワーカホリックだの、古くはエコノミックアニマルだの、日本人の働き過ぎには、よく批判が集まります。でも、日本人は仕事の中に喜びを見つける天才なんですね。「創意工夫」が得意で、つまらない仕事でも楽しくしてしまう。誇っていい美質だと思います。
にもかかわらず、最近「仕事がつまらない、やりがいがない、会社を辞めたい」という若い人が増えてきました。原因は2つ考えられます。1つはアメリカ流の、効率を最優先したマニュアル作業しか与えられない職場。創意工夫の余地がまるでなく、鋳型にはめ込まれたような息苦しさを感じているなら、迷うことはありません。さっさと辞表を叩きつけましょう。
もう1つは、まぎれもなく本人の意識の問題。指示待ちで言われなければ動かない。それでいてプライドだけは高く、間違いを指摘されるとすぐ傷つく。創意工夫もチャレンジ精神もゼロ。受け身の姿勢でいる限り、転職しても同じことの繰り返しです。職場より、自分を変えることを考えてください。それには、テレビでも取り上げられた「シベリア抑留者」のエピソードが参考になりそうです。
シベリア抑留者とは、第2次世界大戦終戦時に、ソ連軍のために捕虜にされた日本人のことで、満洲帝国や朝鮮半島北部、樺太、千島に駐屯していた日本軍軍人・軍属に、居住していた民間人を含みます。人数は諸説ありますが、一般的には65万人。ソ連各地に建てられた厳寒の収容所に送り込まれ、劣悪な環境の中、最長で11年間もの間、強制労働を強いられました。飢えや病気、怪我などで亡くなった人は、名簿で確認できるだけでも約5万3000人にのぼります。
1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦布告。満洲、朝鮮、樺太、千島に軍事侵攻し、日本のポツダム宣言受諾・降伏後も、8月26日まで戦闘は継続します。この抑留は、武装解除した日本兵の帰国を保障したポツダム宣言や、捕虜の人道的取扱いを定めたジュネーブ条約に背くもので、とてつもなく不当な悲劇でした。
さて、シベリア抑留者が働かされた地の1つに、現ウズベキスタン共和国があります。2万5000人が収容所にいたと伝えられ、道路や運河、発電所などのインフラ、学校などの建物の施工を担当し、その勤勉な仕事ぶりは、地元の称賛の的だったとか。首都タシケントには二年がかりで建てた国立ナポイ劇場があり、ここには日本人の功績を記した銅板のプレートが掲げられています。この地はその後2度大地震に見舞われ、多くの建物が崩壊しましたが、このナポイ劇場はびくともしていません。
抑留者には技術将校や工兵、南満洲鉄道のエンジニアなどがいて、技術レベルも高かったのでしょうが、捕虜という過酷な立場にもかかわらず、日本人としてのプライドを保ち、頑丈な劇場を、コツコツと丁寧に仕上げたのです。仕事に創意工夫を凝らす姿勢が、辛うじて生きがいともなり、地獄に等しい日々を支えてくれました。
今でもウズベキスタンには、子どもたちに「日本人のようになりなさい」と諭すお母さんがいるということです。
日本人がこのように創意工夫を大切にするのは、もともと〝ものづくり〞の伝統が根付いていたことも大きいでしょう。練達の職人さんが地域社会できちんと評価され、尊敬され、技を磨く修業も代々受け継がれていく。跡継ぎになることを天命・天職と考え、その息子として生まれることを選ぶ魂も、少なくないのだと思います。
職人さんが作った道具類もまた、日本人は大切に扱いました。民間信仰では、長く使い込んだ道具には霊魂が宿って、「付喪神(つくもがみ)(九十九神)」になると伝えられています。壊れたら何度でも修理して、どうしても捨てるときにはちゃんとお祓いをする。私が子どものころまでは、折れたり錆びたりして使えなくなった針を、お豆腐に刺して拝んでから処分する「針供養」という風習が残っていたものです。
そういう土壌がなければ、本田宗一郎や松下幸之助の成功もありませんでした。ものづくりの世界は今、IT化され、ロボット化されてすっかり姿を変えましたが、創意工夫の精神は、脈々と息づいています。
働く楽しさを、再発見してください。
「ありがとう」の幸せ効果
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