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—— 『或るアホウの一生』は、将棋に魅入られた主人公が奨励会に入り、プロ入りの壁にぶつかるところから物語が始まります。今回は、棋譜監修をしている橋本さんに、まだ将棋に詳しくない方向けに、棋士としての生き方についてお伺いできればと思います。そもそも橋本さんが「将棋をはじめるきっかけ」はなんだったのでしょうか。
橋本崇載八段(以下、橋本) 父親が、学生時代からずっと将棋が好きだった人で。僕も小学校3年生くらいに教えてもらい始めました。きょうだいが4人いるんですけど、興味を持ったのは僕だけ(笑)。わかりやすい子供向けの入門書を読んで、ゲームボーイの将棋ソフトで遊んで……とやってるうちに、いつのまにか。
—— いつのまにか好きになっていたと。
橋本 うーん、なんて言ったらいいのかな。もう好きも嫌いもなかったんですよ。いや、もちろん好きなんですけど、他になにか考えるわけでもなく将棋への道に行ってしまった。当時、クラスでいちばん足が遅かったし、勉強もさしておもしろいとも思えなかった。でも将棋は楽しいしおもしろくて、ずっとやっていました。
—— どこが楽しかったんでしょうか。
橋本 最初から楽しいとは思ったんですけど、何がと言われると……わからないですね。当時は将棋道場がいっぱいあって、そこに行って大人と混ざって指したり、大会に出ているうちに、「奨励会に入ったらどうだ」と言われるようになりました。
—— その時にはすでに、プロ入りを強く意識していましたか?
橋本 やっぱり「プロになりたいな」とは思ってましたよ。でも小学生だからそこまで強い意志ではなくて、あくまで“将来の夢”ってやつですね。子どもの頃って、誰も「東大に行く」とか「サラリーマンになる」って夢は抱かないですよね(笑)。将棋が好きだから将棋をやって、強くなっちゃったから奨励会に入って……という感じでした。
—— 小学生で奨励会に入る方というのは、かなり多いんですか?
橋本 奨励会は基本的には26歳で辞めなければいけない年齢制限があるので、プロを目指すなら、小学生から奨励会に入るのがほとんどですね。中学生だとちょっと遅いくらい。
橋本 いやいや! 当時はアマチュア四段くらいでしたけど、全然歯が立たないような強い大人はどこにでもいましたよ。でも、将棋はプロとアマチュアが全然違う世界なので、強い相手と対局したいとは思ってましたね。
「本当に自分はプロになれるのか?」不安になった三段リーグ
—— そして入った奨励会。『或るアホウ』1巻では四段に昇段してプロになるための、長く厳しい三段リーグが描かれていました。これは、監修の橋本さんの実体験なんでしょうか。
橋本 僕の実体験ではないんですが、実際ああいう感じでした。プロになるまでの過程って、6級から初段に上がって、三段リーグに到達するまでで半分くらいと言われるんです。
—— つまり、三段リーグがそれだけ過酷であると。
橋本 半分いかずに辞めていく人はそこまで痛みがないかもしれないですけど、三段で辞めていく人は多いし、すごく痛みがある。この将棋に負けたら奨励会を辞めなきゃいけないという試合に負けて、泣きながら指していた人も見ました。僕も、三段のときは、正直「本当に自分はプロになれるのか?」と心配になりました。
—— 意外です。橋本先生はすごく順調にプロになったのかと。
橋本 三段まではとんとん拍子に進んで、そんなに苦労もしてなかったと思うんですよね。でも三段リーグには、自分より強い人がいっぱいいて、その人たちはやっぱり「力が違う」という感じ。根性だけで勝っているような時期がありました。しかも僕より2個下の渡辺明さんが、もうひょひょいのひょいって先にプロになっちゃった。
—— 渡辺さんは史上4人目の中学生プロ棋士……!
橋本 自分では一生懸命頑張っているんだけど、「こんなに勉強してるのに力がついてない」とどんどん自信がなくなってきて、手が伸びなくなってきて……で、ある日のリーグで、時間切れで負けちゃうんです。
—— 時間切れ。
橋本 1回指そうとして、駒をおっことしちゃった。慌てて指しなおそうとしたんだけど、時計は秒読み。そのまま時間切れで反則負け。そのときはもうめちゃくちゃショック。「俺の半年がまた終わっちゃった!」と将棋会館のそばの神社で大暴れしちゃいました(※)。
漫画にも似たようなシーンがありましたよね。偶然なんですけど、本当にあんな感じだったのでびっくりしました(笑)。
※三段リーグは半年単位で行われる。
—— どうやって反則負けのショックを乗り越えたんですか?
橋本 「こんなんで負けてちゃ、四段はこの年は無理だな」と思いました。そうしたら、自然とプレッシャーから解放されて、びゅんびゅん駒に手が伸びるようになったんですよね。それまでの自分は気づかなかったけど、「何が何でもプロになりたい、勝たなきゃ」ってことばっかり考えて、「実力がついてるのか、ついてないのか?」という冷静な把握ができてなかった。
—— 反則負けで、逆に自分の立ち位置が見えるようになった?
橋本 そうですね。三段までって、若さの勢いやガッツや根性でなんとかなっちゃう。でも三段リーグはプロになる最終関門だから、ごまかしがきかないんです。出だしでつまずいちゃったことで、逆に自分の実力をつけるようにと考えるようになって、勝ち方もつかめてくるようになりました。そこからは人が変わったみたいに大爆発でした。
—— 「自分は絶対にプロになれる」と思ったのはいつごろですか?
橋本 その反則負けをしちゃったリーグ戦ですね。最初の借金が多すぎて上位争いには絡めなかったけど、心が切り替わったおかげで、最終的に5位くらいまでは上がれました。「そろそろこれは自分の番だな」と確信をもちました。
プロの世界は天国ではなく地獄だった
—— アマチュアからプロの世界に入って、まず抱いた感想は。
橋本 プロ棋士になれば天国かと思ったら、むしろ地獄だった……。
—— えっ!(笑)
橋本 プロになる前は、プロになれば「将棋だけ指して、いっぱい稼げて、一生安泰で……」と思ってたんです。とんでもない! ちょっと負ければすぐ対局もなくなるし、食っていけるか不安になるし、勝つ人はとことん勝っていくし。つらかったです。
—— 特につらかった時期はいつでしょうか。
橋本 むしろ楽しかった時期がない(笑)。今もずっとつらい。なんでもそうなんですけど、プロは苦しいからプロなんですよ。アマチュアの初段・二段までは楽しくてしょうがない。でも強くなればなるほど、楽しく勝てなくなっていく。ボクシングだと、最初は派手なスパーリングをしているのが、だんだんお互いに様子を見て動かなくなっているような……相手の手を殺す将棋になってくるんです。「勝つ将棋」というより、「負けにくい将棋」ですね。これは本当に苦しい!
—— 勝っても負けても、つらくて苦しいですか?
橋本 はい。スパッと勝てれば楽だけど、「早く終わらせたい」と思った瞬間が一番危なかったりもするし……とにかく疲れるんですよ! 将棋は完成度が高くておもしろくて、覚えるのも比較的難しいから、入りはじめは楽しいんだけど、強くなれば強くなるほどつまらなくなるゲームなんです。爽快な勝ち方はなかなかなくて、どっちが先に根負けするかの殺し合いになる。
—— 「つまらない」のに、一生を賭けてやり続けるのは、なんだか業が深いなと感じてしまいます。
橋本 しょうがない(笑)。めちゃくちゃ苦しいし、しんどいんですけど……でも、ファンが楽しみに観てくれているのは、そういう人間同士のギリギリのやりとりなんですよね。だったら、できればいいものを見せたい。しんどくても、プロとして、お金をもらってるわけですから。
次回、「負けた理由がわからないこともある」は11月16日(月)更新予定。
構成:青柳美帆子
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