君は以前のように笑わなくなったから。」

洋子は、リチャードが浮気をしていることを薄々察していた。
リチャードにとって、望んでいたはずの結婚生活は、彼の自信を少しずつ失わせていったのだ。
その原因は、2年前の洋子の"浮気"にあったーー……。

 友人から、妻とのいかにも濃やかな愛情の交歓について自慢されると、自分が洋子から得ているものの乏しさに気が滅入った。しかし、その同じ友人が、浮気など考えたこともないと当たり前のように断言するのを聞くと、自分はその分、彼の知らない人生の逸楽を味わっているのだと、甘やかな苦痛を伴う慰撫を味わった。

 彼は今でも洋子を愛していたが、妻の前に出ると、なんとなく自尊心を傷つけられて、陽気さを装ってみても後が続かず、独りになった自室で腹立たしげにウロウロしたりした。家庭生活の喜びを実感できるのは、ケンと一緒の時だけだったが、こうなった理由は、ケンの生まれるのが少々早すぎたからかもしれないと思うこともあった。

 リチャードは、結婚以来、ずっとそんな調子だったわけではなかった。彼は段々と自信を失っていったのだったが、その根を辿ってゆくならば、結局のところ、婚約期間中の洋子の“浮気”に逢着せざるを得なかった。

 洋子には確かに、負い目があった。結婚を目前にして突如出現した蒔野というライヴァルとの競争に、リチャードは、持てる情熱のすべてを注いだので、その勝利に酔い痴れた暁には、さすがにしばらく幸福な虚脱感に浸ることとなった。そして、幸福の熱が引いた後も、虚脱感だけはいつまでも続き、相対的には強くなったように感じられた。

 元々旧知の間柄で、年齢も年齢だけに、共同生活には、最初から蕩けるような甘美さが欠けていた。洋子の体調もしばらくは優れず、リチャードは、PTSDに苦しむ妻のために、戸惑いながらも、夫の義務として、辛抱強くその傍らに寄り添い続けた。

 洋子は、彼に感謝していたし、彼への愛に疑問を抱くことなど出来なかった。

 名医だと人気の産婦人科通いの効果もあって、ケンの妊娠は思いの外早かった。それが、どれほどの喜びをもたらし、自分の人生を新しく感じさせたかは、幾ら言葉を尽くしても足りなかった。リチャードも、そして、双方の家族も皆が祝福してくれた。その笑顔がまた嬉しく、少しくプレッシャーにも感じた。

 四十二歳となっていた洋子は、これが恐らくは最後の出産のチャンスだろうと思っていた。

 悪阻が重かっただけでなく流産の懸念もあり、夫婦関係は保守的に慎んだ。リチャードは、それを当然のこととして受け容れ、不平を言わなかったが、日常の何気ない抱擁やキスにも、どことなく重たく引き摺るような熱が籠もった。彼は、性欲というものの子供じみた振る舞いに手を焼いた。寝苦しい夜に、思わず代替的な方法を仄めかしてしまった時には、洋子もそれに応じた。しかし、やがて恥じ入るようにして、彼の方からそれを求めることはなくなった。

 リチャードの名誉のために言うならば、彼は決して、こんな妊娠中のありきたりな苦しみのために、洋子に不満を抱いたわけではなかった。しかし、悪阻で洋子がいらいらするのと同じ程度の必然性で、それが彼に、 作用した、、、、 のは事実だった。問題は、その作用がいかにも妙な具合に表れてしまったことだった。というのも、婚約期間中から、自分が洋子から愛されていないのではと不安を覚える時には、肉体的な交わりの激しさによって、それを紛らせようとするのか、彼のクセになっていたからだった。

 リチャードは、痩身で、あまり目立たなかった洋子のおなかが、ようよう人の注意を引くようになったくらいの頃に、唐突にこんなことを言った。

「君は、僕との結婚を後悔していない?」

 それは丁度、急にこってりしたものが食べたくなったという洋子のリクエストで、チェルシーの自宅近くのシックなピザ屋に二人で行った時のことだった。

 マッシュルームがたっぷり載った名物のピザを、リチャードはいつになく、二切れ半しか食べなかった。

「どうしてそんなこと訊くの? 考えたこともない、そんなこと。」

「君は以前のように笑わなくなったから。」

「そう? この顔見て。笑ってるって言わない、これ? 妊娠も大変なのよ。あなたもおなかに三キロの重りをつけて一日過ごしてみたら、なんだ、これのせいかって思うから。」

「君はやっぱり、あの日本人のギタリストと結婚すべきだったって、後悔してるんじゃない?」

「だから、どうしてそんなこと蒸し返すの? あなた自身が後悔してるから?」

「違う。」

「ただの“マリッジ・ブルー”ってことにしてくれたんでしょう? 今更、思い出したくないの。」

「僕は彼に今でも嫉妬してる。」

「嫉妬に値する関係でもなかったのよ。何度も言ったけど、……」

「アーティストっていうのは、嫌な連中だよ。」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません