人知れず“悪”を犯しているという優越感が、彼をたしなめ、謙虚にさせた。

リチャードと結婚し、ニューヨークに住む洋子。
2年前の蒔野との残酷な別れから、洋子は一度パリに戻っていた。そこで待っていたのは……。

 あなただけは、純粋無垢な美しい人間だって、どうして信じられるのかしら? 誰も文句のつけようがないような正しいことを主張するのって、気持ちがいいでしょうけど。そこまで行くと、わたしたちとあなたと、どっちが厚顔か、もうわからないわね。だったら、おあいこってことでいいじゃない?」

 ヘレンは最後まで、まるでナイーヴな高校生でも諭すような口調だった。洋子は、その居直った態度にますます腹が立ったが、決して感情的にならないところには感心して、どちらかというと、こちらの人間性を見られているような居心地の悪さを感じた。

 そして、リチャードに対する指摘には、返す言葉もなかった。それが、昨年来の夫婦の口論の最も深刻な理由だった。

 当のリチャードが、二人の会話の雲行きを察知したのか、顔色を変えて洋子を迎えに来た。

「十分に楽しんだ? そろそろ、失礼しようか。ケンのベビーシッターは十一時までの約束だから。」

 立ち上がると、洋子は、とろんとした目で夫婦を見送るヘレンに挨拶をした。リチャードは、強張った笑みを浮かべて彼女を見ていたが、

「心配しなくても大丈夫よ。女同士のたわいもない話だから。」

 と言われて、洋子の背中に手を回し、帰宅を促した。


 チェルシーの自宅まではタクシーですぐだったが、リチャードはそわそわした様子で、さりげなさを装いながらも、先ほどの二人の会話の内容を知りたがった。

「目新しい話じゃないの。—あなたが喜ばない話よ。」

 洋子は、そう返事をしたが、思わせぶりな言い草が自分で嫌になった。

「あなたの仕事についてのわたしの 誤解 、、 を、彼女が正してたのよ。」

 リチャードは、それを聞いて、意外にも安堵の色を窺わせた。もう何度となく口論していて、いつしか互いに蒸し返さなくなったその話題に、リチャードは気が緩んだようにやや不用意に触れた。

「なかなか、一般には理解されにくいことだけど、彼女たちと話せば、君も見方が変わるよ。最初に僕を信じてくれていた通りに。僕は君が、フェアな人間だって信じている。世間では、金融業界の人間は悪魔のように言われているけれど、実際に、市場は落ち着きを取り戻しつつある。一時的な問題だよ。この世界は動的なんだから、どうしたっていいことばかりじゃない。大事なのは、何かが起きた時に、それを克服し、安定させるシステムを作っておくことなんだから。」

「あなたは、ああいう人たちとのつきあいを心から楽しんでるの? それとも、仕事上、仕方なく?」

「簡単には割り切れないよ。そんな質問、君らしくもない。それはもちろん、ついていけないところもあるよ。彼らは冒険好きだし、羽目を外すこともある。それは、僕には関係のない場所での話だよ。だけど、本質的には非常に優秀な人たちであることは間違いない。僕とは話が合う。いつも言ってることだけど、君が嫌なら、彼らといつもつきあわなくたっていいんだし、実際、ずっとそうしてきた。だけど、ケンのことを考えるなら、僕たちの生活が、こんな世の中でも経済的に安定しているっていうことは大事だろう? 僕はただの経済学者に過ぎないんだから。」

 洋子は、小さく嘆息して、悲しげな目で夫を見返した。我慢していたものが、その一瞥で皆弾け飛んでしまったように、リチャードは、うんざりした顔で足を一度大きく踏み鳴らした。

 二年前の夏、東京で蒔野にメールで別れを告げられ、長崎の実家で母とともに時間を過ごしてパリに戻った洋子は、空港で思いがけず、リチャードとその姉のクレアの出迎えを受けた。連絡したのは、洋子の母で、娘が心配なので側にいてやってほしいと、頼み込んだらしかった。

 金融市場が混乱し始め、リチャードも多忙だったはずだが、彼はクレアに付き添われて、取るものも取りあえずにパリに飛んで来た。そして、まるで放蕩息子の帰還を喜ぶ父親のように、洋子を出迎えたのだった。洋子は後に、その経緯を打ち明けられたが、母を責めることはしなかった。

 あの時、何が起きたのか?—洋子はまず、リチャードではなく、クレアに抱きしめられた。そして、その抱擁の時間が、単なる挨拶にしては、些か長くなりすぎてしまったのだった。

 その長引いた分だけ、彼女は安堵し、もうこのまま楽になりたいと感じた。からだの力が抜け落ちてしまったかのようで、自分の足で立っているので精一杯だった。

 続けて、リチャードと交わした三カ月半ぶりの抱擁もまた、あとにはもう引き返せない長さとなってしまった。パリに着いてから、蒔野に改めて、メールを書くつもりだったが、そうすべきではないのかもしれないと思った。今が未練を断ち切るための最後のチャンスで、自分は、あんなにも酷い仕打ちをしたにも拘らず、これほど寛大に差し伸べられた手を、ともかくももう、握ってしまったのだから。……

 離してはいけない。何もかもを忘れて、 無かったこと 、、、、、、 として、自分はリチャードと結婚すべきなのだと彼女は思った。

 すべては、彼の言う通り、マリッジ・ブルーの時期にはよくある、取るに足らない混乱に過ぎなかった。

 振り返れば、洋子のPTSDが最も酷い症状を呈していたのは、あの時期だった。

 西新宿のホテルのエレヴェーターで経験したような強烈なフラッシュバックは、徐々に和らいでいったが、自然に治癒したとは言えず、やはり、リチャードの献身には感謝していた。

 東京にいた間、電源を入れていなかった携帯電話には、蒔野からのメッセージが幾つも届いていたが、洋子は、自分自身をもう後戻りさせないために、それらを読むこともないまま、すべて消去した。そうすることで、彼との関係にけじめをつけた。それが、彼の望んでいたことなのだから。

 それでも、結婚の事実を伝えるメールだけは書いたが、返事はなかった。そもそもが、返事を期待していない文面だった。

 蒔野の音楽も、それ以来、一度も聴いてはいない。彼だけでなく、クラシック・ギター自体を遠ざけるようになって、たまにどこかで耳に入っても聴かないように努めた。

 あれも、自分にバグダッドを思い出させる悪い記憶の一つだったのかもしれないとさえ考えた。聴けばまた、ようやく解除されたらしい自分の中のセンサーが、不意に鳴り出してしまうかもしれない。

 結婚をきっかけにニューヨークに移住し、仕事も辞めてしばらくはゆっくりした。

 ジャリーラのことは、最後まで心配だったが、フィリップがバグダッドから帰国したタイミングで相談して、一人暮らしを支援しつつ、彼の知人の女性が当面は世話役を引き受けることになった。ジャリーラは、洋子の結婚を心から喜び、自分のことは気にせずにニューヨークに行ってほしいと強く訴えた。いつでもスカイプで話せるのだから、と。

 蒔野のことは、なかなか忘れられなかったが、そういう自分を責め、子供を妊娠した頃からは、自然と彼を思い出すことも減っていった。

 この日、唐突に彼の記憶が蘇ってきたのは、無意識の曰くありげな作用だった。

 というのも、洋子とリチャードとの結婚生活において、この夜のパーティーは、一つの節目となったからだった。

 春先から薄々察していたリチャードの浮気の相手は、後にヘレンだとわかった。そして、洋子がヘレンと顔をつきあわせて二人きりで会話をしたのは、後にも先にもこの一度だけだった。

 リチャードは、ヘレンとの関係を通じて、肉体的にも精神的にも、大きな慰めを得ていたが、罪悪感がそれを損なうかと言えばそうでもなく、むしろその良心の呵責こそは、現実のままならなさを受け容れるのに不可欠な、意外な効能の妙薬だった。

 人知れず“悪”を犯しているという優越感が、彼をたしなめ、謙虚にさせた。

 忍耐には大抵、損得勘定が伴うものだが、人より多くの我慢を強いられているという意識の身を焼くような煩悶にとって、他方で、人が当然に守っている禁止をこっそり破っているという疚しさは、一服の清涼剤となった。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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平野啓一郎

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