アメリカ人だからだろうか? しかし、洋子は今、一歳になったばかりの男の子——ケンという名前だった——を育てながら、語学学校でフランス語を教え、同時に、チェルシーの自宅近くのギャラリーで働いていたが、そこで接する男たちにせよ、別に彼女に何をひけらかすというわけでもなかった。
そんなことを考えながら、洋子は久しぶりに、蒔野聡史のことを思い出した。
——彼は今、何をしているのかしら?……
他人との違いが、
彼とて、男だった。そういう例を知っているという事実は、ヘレンへの反論の根拠として、洋子の自尊心を少しくくすぐった。
しかし、それと同時に、まだ懐かしいと感じるほど、彼の存在が薄れてはいないことも知った。
もう二年経っている。しかし、まだ二年だと、誰かはわからない親しい人の声で、念押しされた気がした。彼の記憶が脳裏を過ると、洋子はその痛みのために、覚えず下を向いて目を瞑った。
ヘレンは、洋子の曖昧な反応が不服のようだった。
「ささやかな楽しみよ。わかり合える人同士でいる時くらいは、せめて思う存分、自慢話でもしないと、何のために生きているか、わからないでしょう? かわいそうに。世間では、お金を持ってるだけで悪党みたいに言われてるし。」
「自慢したいっていう人間の気持ちもわかるけど、……今、わざわざ高級車を乗り回している話をして、そんなに気分がいいかしら? たとえ内輪であったとしても。」
洋子は、話に集中していなかったせいで、余計なことを言ってしまったと感じた。
今日は、口を開けばそうなるに決まっているから、とにかく黙っているつもりだった。それが、蒔野のことを考えたせいで、つい、昔彼とよくスカイプで喋っていた頃のことを思い出して、その口調になってしまった。ここにいるのは苦痛だったが、この話を彼としたなら、きっと楽しかっただろう。
「本音では、サブプライム・ローンみたいな、最初から焦げつくことがわかりきってる債権を、証券化して世界中にばらまくなんて、ムチャだったって思ってるんでしょう、みんな? それで自分たちだけは税金で救済されて、疚しい気持ちにはならないのかしら? 片や家も職も失って、路頭に迷ってる人たちがあんなにたくさんいるっていうのに。」
ヘレンは、鼻で笑って、自分のマティーニを飲み干した。
「あなたって、美しい人なのね。わたしたちとは、全然違う。着飾って、この場に溶け込んでいるように見えても、やっぱり元ジャーナリストね。——でも、誰も、ただぼんやりしていてお金持ちになったわけじゃないのよ。与えられた自由を最大限活用して、ようやく今の生活を手に入れたの。ゲームをゲームだと百も承知の上で、プレイヤーとして参加して。たくさんの犠牲も払ってる。競争社会を生き抜くためには、知恵も必要よね。この寒空の下で、家もなく生活している人たちは気の毒だけど、彼らだって、束の間でも、サブプライムのお陰で、一生住むことの出来ないような贅沢な家に住めたんだから。ローンは、わたしたちだって、ちゃんと払ってほしかったわよ。そうすべきよね、お金を借りてるんだから。誰が悪いの? ローンを払わなかった人たちでしょう? こっちは被害者よ。」
「騙してるでしょう、お金を借りた人たちも、その危険な証券をAAAなんて格付けして買った人たちも。」
「いい大人なのよ、彼らも。グローバル化して、世界はとても複雑になってる。勉強しないと。それを怠けて損をしたって、自分の責任でしょう?」
洋子は、相手を刺激しているのは自分だと承知していながらも、小馬鹿にしたようなその口調が癇に触った。
「この世界のリスクは、ますます複雑になって不可視化されてゆく。すごいスピードで。——それはそう。専門的な知識を持っている人と、そうじゃない人とは、酷く非対称な関係になってる。あなたたちが金融に詳しいのは、自分の人生の時間をそのために費やして、その知識を寡占しているからであって、あなたはじゃあ、あなたが一般の人に期待する金融工学についての知識と同程度の知識を、遺伝子組み換え食品や地球温暖化、中東の政治情勢について十分に持っているのかしら? 仮にあなたがそんなスーパーウーマンだとして、この社会の構成員全員がそうであるべきだなんて前提の政治理論は、最初から破綻してるでしょう? 抽象論じゃなくて、実際に面と向かって会話をする誰に対しても、債務担保証券について何も知らないからって批判できる? しかも、あんなに色んなものを混ぜ込んで、それを敢えて複雑化させて、不可視化させているっていうのに。」
「それはあなたの無知な誤解よ。騙すために複雑化してるんじゃないの。リスクの分散化のためよ、一言で言えば。でも、その中にはどうしたって、予測不可能なものが混ざり込まざるを得ないでしょう? だから、保険もかけるのよ。」
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