日本建築論

国会議事堂はいかに語られたのか:第10章(2) 【最終回】

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。


○建築界の今後を背負うプロジェクト

 国会議事堂の議論が盛り上がったのは、日清戦争、日露戦争に勝利し、日本が大きな自信をもちはじめた時代だった。西洋の列強と並ぶ地位を得るならば、もはや建築のデザインも外来のものに追従する必要はないのではないか。平安時代や江戸時代に大陸からの文化を独自に熟成させて、自ずと和様化が進んだのは、国を閉じることによってもたらされたが、今度はむしろアジアに進出していく拡張主義が、日本的なものを探求する背景にあった。国会議事堂のプロジェクトを契機に企画された1910年の日本建築学会の討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」は、近代建築史の教科書で必ず紹介されるトピックである(『建築雑誌』1910年6月・8月号)。明治における最大の国家建築は、最大の議論の場を生みだした。実際、二回の討論会とも100名以上の会員が参加したというから、当時の建築界がいかに高い関心をもっていたかがうかがえる。

 辰野金吾が司会をつとめた討論会では、様々な意見が表明された。例えば、伊東忠太は進化論、三橋四郎は和洋折衷説である。歴史家の関野貞は、「立派な「ナショナルスタイル」」ができることを想定し、様式を決定する要因は、地勢、気候、材料、生活の慣習、従来の様式、外国様式との接触、時代思潮すなわち「今日の日本国民の時代精神」の七つだと整理し、最後が最大の要素だという。「国民的建築様式」を生みだす方法としては、第一にあくまでも日本式を発展、第二に西洋建築を日本化することを挙げながらも、アールヌーボーのように、第三の道として新様式をつくるのが興味深いと語る。そして、これまでの過去の様式を土台に国民の趣味をあらわす、「一種の清新な国民的様式」の誕生を期待していた。佐野利器も新しい様式に賛成し、セセッションが成し遂げたように、正直で簡明な力学的な表現を採用しながら、「装飾国民の熟知する物体」によって「国民的様式に到達する」という。岡田信一郎は、西洋と日本の建築史研究がもっと必要であり、それが「我国将来の建築様式」を解決する手段のひとつになると主張した。

 一方、長野宇平治は、日本社会がヨーロッパの方向に進む時代に国粋建築は難しいと考える。「私は今の日本の軍事上の成功に於けるが如く、建築と云ふ者も必ず形が変つたからして日本人の「ナショナリテイー」が建築の上に現はれないと云ふことは言へない積りである。形の上に於てのみ現はれて居る「ナショナリテイー」は失はれても精神上に於ける日本の国粋は矢張り建築に於いても軍隊と同じやうに益々発揮することが出来るであらうと思ふ」。今やヨーロッパの建築も各国のナショナリティを失っており、日本だけ孤立して自分の城壁を守れないから、新様式を無理に発達させたり、折衷主義を行うことはできないという。彼によれば、いまは試験的な時代であり、今後はヨーロッパの建築を本格的に受け入れることになる。横河民輔も、様式は科学ではないから、そもそも討論会の「如何にすべき」という題はおかしいと述べ、日本に固有のスタイルが必要だと思わないと主張した。特に学会として結論は出していないが、それぞれの立場が表明されている。

 現在から見ると、「国家」と「様式」がダイレクトに連結して語られていることが驚きだろう。また意匠と歴史が、問題構制として連続していることも注目すべきだ。これらは国家の意識が芽生えた19世紀後半が、建築史的には過去の様式が百花繚乱する歴史主義、折衷主義の時代と重なっていたことに起因する。だが、討論会そのものは多様な意見が飛び交っただけで、議論は行き詰まっていた。おそらく、タイミングが悪かったのだろう。振り返ると、一部の発表者は過去と断絶するアールヌーボーやセセッションに触れているが、すでに折衷主義は時代遅れであり、建築界は新しいモダニズムに移行しようとしていた。過去の様式に縛られている限り、どの道を選ぼうとも、すぐに賞味期限切れとなる。正解のない討論会だった。こうした意味において、構造的な合理性に着目した佐野や、インターナショナルな建築の未来を語った長野は先見の明があったかもしれない。


○ 美術界から見た国会議事堂

 もう少し広く当時の議事堂に寄せられた期待を見よう。

 伊東忠太の「議院建築の価値」は、「個人建築」、「公共建築」、「国民建築」という分類を提示した(『建築雑誌』289号、1911年)。国民建築とは、「国民全体の利害及国民全般の趣味思想を標準とした建築物」であり、「議院建築」や「戦捷大記念建築」が「最も適切な例」だという。そして個人建築は私選、公共建築は公選が良いのに対し、国民建築はコンペで広く案を募る「国選でなければならぬ」と主張する。議事堂はただの官営建築とは違う。国民建築は「国民の現代の精神現代の趣味を表はすと云ふことが其価値の存ずる最大部分である」。「日本国民の品格が分り、日本国民の学術の程度が分り、日本国民の技芸の程度が分る」ものだ。ゆえに、議院建築の使命は、「渾沌たる今日の国民る趣味思想を統一し、新しい様式を作り出す」ことである。神社やパルテノン神殿などは当時の趣味や精神を反映したから興味深いものであり、欧米の宮殿を模倣しても仕方ない。では、どうやって「国民の現代の国家隆興の精神及趣味」を表現できる、建築家を探すのか。政府の技術者や少数が推薦するものではなく、コンペを行うべきだと主張した。

 議院建築準備委員の一人でもある塚本靖の「議院建築と我建築界の現状」は、講演で欧米の事例やイギリスらしさを求めたイギリスの国会議事堂コンペを紹介しながら、その重要性を指摘した(『建築雑誌』291号、1911年)。「一國一時代を代表すべき建築と云ふものは其時代に依つて各々違う」。かつてはそれが宗教建築であり、社会の体制が変化した現在は議事堂になる。もっとも、アジアの芸術が古代に導入され、日本のものになったのは平安時代だったから、外国のものを消化できるのは、100年後かもしないという。このタイムスパンは興味深い。明治維新から数えて、モダニズムをベースとした伝統論争が起きるのは、およそ90年後である。ただし、敗戦後ゆえに、このときは国家の意識は否定されるべきものであり、民衆という下からの視点が重要だった。さらにSANAA、隈研吾、坂茂、谷口吉生らが、海外で活躍し、それぞれに個性をもった日本人建築家が世界的に注目されるのは、150年後の21世紀である。

 当時、活躍した美術批評の黒田鵬心も、「議院建築の意義」と「実際問題としての建築」において論じている(いずれも『建築雑誌』286号1910年に再録)。前者では、「美術は国民性の所産」であり、建築は美術の一種だという。また議事堂のような大建築には、多くの彫刻や絵画が使われる。そして「王政維新に始まり、国会を創設し、外は台湾、樺太、朝鮮を併せたのが明治時代」であり、「最近十数年間の国土の膨張」を考慮すると、議院建築は「国家を挙げての大問題」だとみなした。後者では、「日本の国民的様式」のようなものがあれば、議論は要らないが、目的と材料の二点から、在来の様式はそのまま使えないこと。また西洋の様式を使うのは簡単だが、「見て不快である」から、和洋折衷の案が起きるけれど、是非「明治日本式」でやってもらいたいという。そして「議院建築は、明治の日本人総てが作り出した明治芸術の華となり得るであろう」と述べる。

 美術界の社交を行う国華倶楽部からも、1910年3月に「議事堂建築に関する意見書」が当局に提出された(『建築雑誌』280号1910年)。同書によれば、欧米を模倣するデザインは「洋風の奴隷」であり、「日本建築」とも「明治の様式」とも言い難い。そこで「明治現代の学芸美術を発揮し国民的精神を代表して事業を完成する」ために、「議事堂の建築は規模の宏壮輪奐の偉麗と共に能く国家と国民との特性を発言し時代を代表すべきもの」だという。すなわち、建築界だけではなく、美術界からも大きな期待を受けたプロジェクトだった。その目的として、「日本」を強く意識したことも同様である。

 東京美術学校長の正木直彦「議院建築に対する国民の対度」は、議事堂建築は奈良の東大寺のような特別の大建築であり、「建築そのものの性質からして、どうしても日本人の手にて仕上げなければならぬ」と主張した(『建築雑誌』289号、1911年)。材料も国産にすべきという。そして「明治の国運に相当するような新様式を造ることが出来ると云ふことを我々は信ずる」。かくして「日本人の総ての智識を集め、日本の有らゆる技術を集めて、明治の五十年と云ふものは」こうだという「標本を後世に示す」。今後もない機会であり、「議院建築は日本に於ける所の建築様式の大革命をさすべき重要なるものであると思ふ」。ただし、まだ国民の関心が少ないという。なお、衆議院議員の長島鷲太郎「議院建築に就て」も、「我国の美術を応用した所の建築物を造りたいと云ふことは誰しも望む所」だと述べながら、国民の自覚が足りないことに触れている(『建築雑誌』291号、1911年)。


○不満に終わったコンペの結果

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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