第68回カンヌ国際映画祭で、日本人初の監督賞を受賞した黒沢清『岸辺の旅』は、深津絵里と浅野忠信の夫婦による旅の物語である。3年前に失踪し、行方不明だった夫が、自宅へ戻ってくる。夫は「自分は海に落ちて死んでしまい、身体はもう蟹に食べられてしまったが、こうして家まで戻ってきた。あちこちきれいな場所があるから、一緒に旅に出ないか」と妻を誘う。どうやら彼は幽霊のような存在であるらしい。こうして夫婦は、夫が帰宅までの道中で世話になった人びとを訪ね歩く旅へ出かけることとなった。
黒沢はこれまでにも、『回路』(’01)や『叫』(’07)等の作品で幽霊の存在を描いているが、本作にホラーの要素はあまりなく、ラブストーリー、メロドラマとして見ることができる。脇を固める小松政夫、蒼井優、柄本明などの好演も光る。
死者がよみがえる、という題材の映画は無数に作られているが、そうした過去作と『岸辺の旅』とのもっとも大きな違いとは、決してファンタジーのタッチにならず、日常的なリアルの目線からストーリーが語られる作風にある。もし、3年前に死んだ夫が幽霊となって自宅の居間に立っていたら、人はどのように反応し、どんな言葉をかけるだろうか。誰もいなかったはずの居間にいつの間にか立っている夫を見た妻は、それがこの世ならざる者であることを直感しつつ、おそるおそる会話を始める。この場面は実にスリリングであり、同時に独特のユーモアを感じさせるものとなっている。実際に愛した者の幽霊がとつぜん現れたら、きっとこのような会話になるだろうという独特の現実感があるのだ。
わけても、靴を履いたまま居間に立っている夫に向かって、土足を指摘するくだりの新鮮さはすばらしい。3年ぶりに再会した幽霊の夫にかける言葉が「靴、優介」だというのが妙におかしくて、そこから発生するリアリティに目が覚めるようである。また、旅に出るふたりが移動にレンタカーを使うか、電車に乗るかを相談する場面も同様だ。
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