その単純な、唯一の解決方法が、無限に遠く感じられた。

病に蝕まれていた蒔野のからだは、ギターを取るという単純かつ唯一の解決方法を取ることができなくなっていた。そして、旧友にとある提案をするが……。

 ただもう、自然に忘れるに任せて、洋子のことは考えないようにしていた。彼女の急な心変わりに対しては、「なぜ?」と問う気持ちが長く尾を引いたが、早苗との結婚生活にその反復を持ち込むことは不誠実だった。今、意味があるのは、 洋子に愛されなかった 、、、、、、、、、、 という事実ではなく、 早苗に愛された 、、、、、、、 という事実だった。

 思いがけず長引いて、抜け出せなくなってしまっている音楽活動の休止に、蒔野は絶えず焦燥を感じていた。それは折々、身悶えするほどの苦しみで彼を苛んだが、にも拘らず、ギターを手に取るという、その単純な、唯一の解決方法が、無限に遠く感じられた。

 しかし今、不用意に蘇ってきた幾つかの懐かしい洋子の記憶は、彼に自分の現状をいよいよ耐え難く感じさせた。

 蒔野は、武知が口を噤んだ折を見計らって、また日本語で語りかけた。

「良かったら、今度、一緒に何かやらない? 俺も、具体的な目標があった方がいいし。足手纏いにならないように、それに向けてがんばって練習するからさ。」

 武知は、蒔野の思いがけない真剣な、それでいて、どことなく気弱な申し出に、口の中に入れたばかりのチャーハンを飲み込みながら、反射的に頷いた。

「うん、やろうよ! 蒔ちゃんとは、今まであんまり一緒にやったこともなかったし。蒔ちゃんとのデュオなら、レコード会社もCDを出してくれるよ、きっと。」

 武知は、幾らか自虐的に笑って見せたが、先ほどのような皮肉は感じなかった。蒔野は、彼のその屈託のない瞳に、改めて、いい男だなと感じながら感謝して言った。

「そこまでの話になるかどうかはわからないけど、とにかく、やってみるよ。簡単じゃないとは思うけど、気づいたこととかさ、教えてよ。信頼してるから。」

 *

 ニューヨークのトライベッカにある豪勢なペントハウスで、洋子は、もうぬるくなってしまった飲みかけのマティーニのグラスをテーブルに置き去りにして、ソファに移動した。リチャードは、彼女が席を立つのに気づいたが、あとは追わなかった。

 ザハ・ハディッドが月をイメージしてデザインしたという流線型のシルバーのソファに腰を下ろした。そんな突拍子もない代物を誰も気にしないほどに、ハドソン・リバーを望むこの二十九階の贅を尽くしたペントハウスは広く、DJの音楽はやかましく、壁にはクリストファー・ウールの巨大なシミのような抽象画が目立っていて、何よりも数多の“金持ち”たちで賑わっていた。

 洋子は、薄暗い部屋に灯る照明の光を頼って、腕時計を確認した。まだ十時を回ったところだった。

 先ほどから三十分しか経っておらず、彼女は、ヘッジファンドのマネージャーだというこの部屋の四十代半ばのオーナーが、二〇〇万ドルもする高級車のブガッティ・ヴェイロンをどのようにして購入したのかという自慢話から、ようやく脱出したところだった。

 ブガッティを購入するためには、所有に相応しい人物であるかどうかの審査があるらしく、それにパスをすると、飛行機のファーストクラスのチケットが送られてきて、 本社 サン・ジャン のあるアルザスのChateau Saint Jeanに招待され、そこで車の細かなスペックの相談をするのだという。要約すればそれだけのことで、三分で聞かされれば興味深い話も、三十分以上もほとんど口を挟む間もなく続けられると、さすがに耐えられなかった。

 一人がそんな話をすると、また別の一人が待ち構えていたかのように後に続く。その退屈な連鎖が、既に彼女の周りを何周もしていた。

 二年前の二〇〇七年頃から始まった世界的な金融危機は、昨年九月のリーマン・ブラザーズの破綻に続くAIGの経営危機、アメリカ下院での緊急経済安定化法案の否決といった“ショック”によって株価を暴落させ、一時は世界恐慌の危機さえ盛んに喧伝された。それがまるでなかったかのような、当の金融業界関係者らの羽振りの良さだった。

 来る前からわかりきっていたことだが、洋子はその光景に、ほとほと気分が悪くなった。

 法案は、大統領選を睨んだ政治的な駆け引きの下で直ちに修正可決されて、結局、七〇〇〇億ドルもの公的資金が投入された。危機の元凶であるウォール街の人間たちを、なぜ税金で救済しなければならないのかという世間の怒りは、ほとんど憐れむようにしてやり過ごされていた。

 今年の二月にNYダウ平均が七〇六二・九三ドルで底を打ってからというもの、株価は鰻登りに回復し、今週ようやく一〇〇〇〇ドルを超えた。今宵はそれを祝うために、世間の顰蹙の目を逃れて、秘密の“魔女の 夜宴 サバト ”に興じているのだった。

 洋子は、窓の外を見るともなしに眺めた。対岸のニュージャージーまで、川の幅だけ夜の闇が領していて、そこに来客たちの姿が断片的に映っている。洋子自身も、なぜかいる。グラスを持っていないと、いかにもパーティから弾き出されてしまった人のようで、置いてきたのを後悔した。

「男ってどうしてあんなに自慢話が好きなのかしら?」

 洋子は後ろから声をかけられて振り返った。胸を強調した赤いドレスのブロンドの女性が、マティーニのグラスを二つ持って立っている。洋子は、差し出された片方を受け取って礼を言い、彼女のために隣に場所を空けた。さっきリチャードに紹介された仕事の関係者だった。

「車、別荘、—それに女。」

「男だから、みんなそうってわけでもないでしょう?」

 洋子は、微笑して言った。確か、ヘレンという名前だった。リチャードが顧問を務めている銀行で働いていて、少し前に二度目の離婚をしたとかで、先ほどは、金融危機以降、毎日のようにメディアで使用される「強欲」というウォール街批判の常套句を自虐的に用いて、一座に笑いをもたらしていた。

「男は本質的にそうよ。そうじゃない男と、会ったことないもの。憐れむくらいの気持ちじゃないと、女はやってられないわね。」

 酔っているのか、ヘレンは、どことなく気怠い、艶のある目でこちらを見ている。洋子は、まるで口説かれているかのようなその共感の差し向け方に戸惑った。

「あなたみたいにきれいで、仕事もよく出来る女性を前にすると、劣等感でアピールに必死になるのよ、きっと。」

 洋子は、さらっと言った。年齢は五、六歳上といったところだろうか。うっかりだぶついた手の甲に目を留めて、そう思ったが、顔はほとんど表情が埋め立てられてしまったかのように、リフティングや注射で張りつめていた。

 学生時代にニューヨークで過ごした時には意識しなかったが、年齢が年齢で、また付き合う層のせいもあって、洋子は、自分の周りにこんなにたくさん整形手術を受けている人がいるということに、まだ慣れなかった。老いに対する決して勝つ見込みのない戦い。—徹底抗戦の構えを見せるどの顔も、戦況は思わしくなかったが、彼女たちにしてみれば、老いの先兵がこんなに平然と顔の方々で陣取り始めている自分の方こそ、神経を疑われているのだろう。

 ヘレンも美貌だが、頬や目尻といった感情の出やすい部分が動かないので、喋っていることが本音なのかどうか、つい考えてしまう。向かい合っていると、洋子自身の表情まで、そのコルセット風の顔に閉じ込められてゆくような感覚があった。

 リチャードが、ちらと気にするようにこちらを見ている。彼も本心では、自分に、そうした 手入れ 、、、 を期待しているのだろうか?……

「わたしだからなんてことじゃない。男の本性よ。別にみんながブガッティを自慢するわけじゃないけど、それぞれの収入なりに、みんな自慢好きでしょう? あなたのご主人だって、他でもなく、あなたのことをよく自慢してたから。」

 洋子は、受け流すように首を振った。幾らそう言われても、彼女はその意見に賛同できなかった。ここにいると、確かにヘレンの言う通りだという気もするが、自分の人生を振り返ってみれば、それほど始終、男の自慢話に悩まされてきたというわけでもなかった。

 例えば、父親のイェルコ・ソリッチは、本当に人に自慢をしない人間だった。寡黙なせいでもあったが、カンヌで賞を獲った時のことなどを聞きたがっても、ほとんど迷惑そうに簡単に話を済ませてしまう。或いは、イラク時代の同僚だったフィリップは? 彼のキャリアは、どんな大金を積んでも手に入れることの出来ない貴重なものだが、同じジャーナリストとして、彼がそれを鼻にかけていると感じたことは一度もなかった。むしろ、彼の言動には、苦い慎みとでも言うべきものが、隅々にまで染み渡っていた。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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