一故人

デットマール・クラマ—日本サッカーを改革したコーチの名語録

「日本サッカーの父」と呼ばれた名コーチ、デットマール・クラマー。日本人選手の心をつかみ、正確なプレイの重要性を伝え、長沼健や岡野俊一郎、ベッケンバウアーらを育て上げた人物です。『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)が話題の近藤正高さんが、クラマーの言葉の数々をたどり、その素顔を浮き彫りにします。

武芸の精神をサッカーに生かそうと考える

1960年、東京オリンピック開催を4年後に控え、サッカー日本代表チームの強化のため西ドイツ(当時)からデットマール・クラマー(2015年9月17日没、90歳)というコーチが派遣された。

そのクラマーがあるとき、選手たちを前に「日本には“ツァンシン”という言葉があるだろう」と言い出したことがあった。当時クラマーのアシスタントコーチ兼通訳を務めていた岡野俊一郎(のちIOC委員、日本サッカー協会会長などを歴任)は、てっきり「三振」のことかと思い、それは野球用語ではないかと聞き返したが、クラマーは「そうではない!」と突っぱねる。しばし沈黙が流れたあと、岡野はそれが剣道や弓道で言う「 残心 ざんしん 」であることに気づいたのだった。

残心とは、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する武芸の心構えを指す。日本人でもなかなか理解しがたい言葉を、クラマーはどこかで学んで覚えていたのだ。そのうえ彼は、残心をサッカーのゴール前の攻防になぞらえて《誰かがシュートを打つ。その瞬間にこぼれ球に対処するために動き出す。打ってからでは遅いんだ》と説明してみせたという(加部究『大和魂のモダンサッカー』)。このエピソードからは、日本の文化や精神に学びながらも、それらを理論的に解釈してサッカーに生かそうというクラマーの姿勢がうかがえる。

クラマーが来日するまで、日本のスポーツ界には外国人コーチを招くという発想はほとんどなく、日本代表の指導を外国人にゆだねるのは屈辱的なことだとすら思われていた。

だが、サッカー日本代表は、1958年の東京でのアジア大会で参加国中最弱と目されていたフィリピンに敗退し、1959年末のローマオリンピック予選では韓国と1勝1敗になったものの、合計得点の差で出場を逃してしまう。国際大会で成果が出せないなか、日本代表の強化は地元でのオリンピック開催に向けて喫緊の課題であった。ここから日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の会長・野津 ゆずる は、西ドイツからコーチを招聘することを決断する。西ドイツサッカー協会に推薦を依頼し、その結果選ばれたのがクラマーだった。彼こそは日本に本格的なモダンサッカーを伝え、のちに「日本サッカーの父」とまで呼ばれるようになった人物である。

選手たちと日本式に寝食をともにしながら

クラマーは1925年にドイツ・ドルトムントに生まれた。1941年、16歳にして地元のクラブチームであるボルシア・ドルトムントに加入し、ドイツ・ユース代表候補にも選ばれた。しかし、すでに第二次世界大戦が始まっており、翌年には兵役に就く。ドイツ降伏の前月、45年4月にオランダで捕虜となり、その後約1年間を連合軍の収容所ですごした。

解放後、クラマーはトイトーニア・リップシュタットというクラブチームとコーチ職の契約を結び、指導者として第一歩を記す。1949年にはトレーナー(ドイツでは監督やコーチをトレーナーと呼ぶ)の資格を取得すると同時に西ドイツ西地区主任コーチに就任、途中から日本への派遣と並行して63年まで務めた。

日本への派遣の話が持ち上がったとき、クラマーはすでに指導者として西ドイツサッカー界に確固たる地位を築いていた。そのため日本行きには少し逡巡したらしい。しかし野津会長からは丁重な依頼の手紙が届き、また西ドイツ協会よりいままでどおりポジションを維持するとの約束も得られたことから訪日を決める。日本選手を初めてコーチしたのは1960年8月、代表チームがヨーロッパ遠征中にドイツ合宿を行なったときだった。来日はそれから2カ月後のことだ。

羽田空港から岡野俊一郎の車で都心のホテルに連れて来られたクラマーは、いきなり「選手たちはどこにいるんだ?」と訊ねた。べつの旅館で合宿をしていると岡野が答えると、「それなら明日から自分もそこに泊まる」と言って実行している。「選手と同じ生活をしないで、どうして選手たちの気持ちがわかるんだ」というのが言い分であった。こうしてクラマーは、慣れない畳の部屋に布団を敷いて寝て、味噌汁や漬物も平然と口にし、文字どおり選手と寝食をともにしながら指導を始めたのだ。

岡野によれば、クラマーの指導法は「なぜ、そうするのか」という理論説明と、彼自身が「そのとおりやってみせる」実践で成り立っていたという。それまでの日本の指導者たちがおのおのの体験を伝えていくだけだったのに対し、理論にもとづき基本的なテクニックを実践してみせるクラマーの指導法は、選手たちに納得しやすいものだった。

指導においてクラマーは常に「ゲナウ(正確に)」と要求した。正確なプレイこそが基礎であるにもかかわらず、日本の選手にはそれができていなかったからだ。一方で、練習試合を見たところ、選手たちはスピードを持っている。そのスピードにテクニックがついてくれば間違いなく国際試合で勝てるようになると、クラマーは考えた。

クラマーはまた「試合は最良の師」と考え、試合の分析を踏まえた練習方法を導入した。それまでの日本式では、基本→応用→実践と段階を踏んでいたが、これを彼は、試合を分析したうえ、必要なら実戦的練習をして、基本ができていなければ基本練習を、というフレキシブルな方法にあらためたのである(岡野俊一郎『雲を抜けて、太陽へ!』)。

クラマーが指導したのは日本代表ばかりではない。全国各地の地方協会から依頼を受けて、積極的に講習会を行なった。この講習会には、まだ高校生だった森孝慈や釜本邦茂など、このあと東京オリンピックとメキシコオリンピックで代表となる選手らも参加している。

全国行脚のなかでクラマーは寺社や城を訪ねたり、剣道家や相撲の力士、画家など各界の著名人に会ったりして、日本について学ぶことにも熱心だった。冒頭でとりあげた残心の言葉もおそらくそのなかで覚えたのだろう。

後継者たちによって達成された「銅メダル」

「試合は最良の師」というクラマーの言葉を実践するように、日本代表は東京オリンピックを前に国内外で盛んに試合を行なっている。前出の1960年のヨーロッパ遠征で、西ドイツのアルミニア・アーヘンというクラブチームに大敗した日本代表チームだが、翌年の欧州遠征ではオランダ代表7人を擁する西ドイツ東部選抜を下した。63年にはオーストリアでクラブチームのザルツブルグに、京都・西京極スタジアムで西ドイツ代表にそれぞれ勝利している。選手たちは着実に力を伸ばしつつあった。

この間、1962年5月にクラマーはいったん日本を離れた。しかしその年の末には、彼によって指導者としての才能を見出された長沼健と岡野俊一郎がそれぞれ日本代表の監督・コーチに就任している。2人ともまだ30代前半の若さだった。クラマーの教えを継承した長沼・岡野体制のもと、日本は1964年の東京オリンピックで8強入り、そして1968年のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得することになる。

なお、クラマーは東京オリンピックでは日本代表のアドバイザーを務め、続くメキシコではFIFA(国際サッカー連盟)コーチという立場にあった。そのため表立って日本に協力はできなかったが、日本戦はベンチのすぐ上の観客席で見ていて、ことあるごとに紙にアドバイスを書いてコーチの岡野に渡した(中条一雄『デットマール・クラマー』)。

愛弟子・ベッケンバウアー

話をふたたび、クラマーが日本に派遣される際に戻す。野津謙は西ドイツサッカー協会の推薦により初めてクラマーに会ったとき、宿舎の部屋に飾られた額を見て、彼なら日本代表チームを預けて間違いないと確信した。そこには次のようなギリシャ哲学者の詩が書かれていたという。

「目、それ自体は見ることができない。耳、それ自体は聞くことができない。ものを見るのは精神であり、音を聞くのは精神である」

このような東洋哲学にも通じる考えの人間なら大丈夫だと思ったと、のちに野津は岡野俊一郎に語ったという(岡野俊一郎『雲を抜けて、太陽へ!』)。クラマーの口癖の一つに「話を眼で聞け」というのがあった。その原典もおそらくは例の額の言葉だろう。

「話を眼で聞け」、ようするに人の話は全神経を集中して聞けということだが、この口癖は教え子たちにも引き継がれた。日本代表のエースであった杉山隆一は、のちに指導者となってから、選手たちに向かって「人の話は眼で聞くものだ。耳だけで聞こうとするから聞き落したり、素通りしてしまうんだ。耳だけこっちのほうに向けてりゃいいなんて了見は大間違いだぞ」と繰り返し口にしたという(杉山隆一『男は勝負 ゼロからの出発』)。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

tatsuenishimura 名将と言えば今はラグビー日本代表のエディさんだが、今の日本サッカーの礎を築いたのも名将と言われたクラマーさん。 クラマーさん以降名将と呼ばれたのは、オシムさんくらいで簡単にそんな人物は出てこない。... http://t.co/z12R4c7w1t 約4年前 replyretweetfavorite

mizuodori 終盤での日本サッカー界への苦言が手厳しい。著者も私と同じ様な考えでいるのかな? 約4年前 replyretweetfavorite

hirotnara |一故人|近藤正高|cakes(ケイクス) ”エリート選手を育てることだけが目的ではない”。 スポーツは楽しむもの でもありますからね。 https://t.co/MnKLPfI8ig 約4年前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載、更新されました。今回とりあげたのは、先月亡くなったドイツ出身の「日本サッカーの父」です。 約4年前 replyretweetfavorite