故国を失った三人の少女—米原万里と『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』[青]

ロシア語同時通訳であり、文学賞の受賞を重ねた優れた作家であった米原万里さん。彼女が、小学生時代の級友であったギリシア人、ルーマニア人、ボスニアのボシュニャク人の3人の少女の消息を確かめた記録『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本書を、finalventさんが読み解きます。共産主義の理想が崩壊するにつれ、歴史の激流に飲み込まれ、故国を失うことになった三人の少女の背中を共に追いかけてみましょう。

 日常の生活に埋没していても私たちは、ふと自分たち・・・・の国家は何か・・・・・・民族とは何か・・・・・・、そういう大きな問いに直面して立ち止まることがある。
 例えば2015年、それまで自国に課すことのなかった「集団的自衛権」について平和憲法との関わりで問われた。戦後の日本国と日本人にとって歴史の大きな岐路になりうる問題である。どう考えたらよいか。
 各種の議論が沸き起こったが、それが歴史の岐路となりうるなら、歴史を問い返すのもよい。日本と同様、第二次世界大戦で敗戦し、戦争を引き起こした責務に問われたドイツは、似たような状況にあったときどうだったか。

 1991年、ユーゴスラヴィア連邦(当時)セルビア共和国内で民族対立からセルビア人による虐殺行為が起きた、とされた。そこで、集団的自衛権として北大西洋条約機構(NATO)に組み込まれていたドイツでは、かつてユダヤ人虐殺をした反省からセルビア人の虐殺行為に「人道的介入」を行うべきかが問われた。
 国連決議はなかったが、社会民主党と緑の党の連立政権だったシュレーダー内閣は結局、コソヴォ空爆に参加を決断し、それが戦後初の国外への軍隊派遣となった。そしてその決断が結局、何をもたらしただろうか。歴史はどのように何を物語るだろうか。

 本書、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、このことを考えさせるきっかけにもなるだろう。

一人の人間の情感を通して知る社会主義の崩壊

 2002年に出された本書は、著者の米原万里が、十代前半の少女期に体験した社会主義国の学校生活の思い出を元に、30年後、当時の三人の友人—ギリシア人、ルーマニア人、ユーゴスラビア人—を再訪するノンフィクションである。また、それを通して、冷戦時代の社会主義とは何であったか、またその崩壊が現代の世界に何をもたらしているかを、一人の生きた人間の情感を通して示してくれる。西欧と東欧の狭間の、日本からは見えにくい中欧の姿を知らせる貴重な書籍でもある。

 米原万里は1950年(昭和25年)、日本共産党の幹部であり衆議院議でもあった米原昶の娘として東京に生まれ、東京で育った。そのまま育てば後の米原万里はなかっただろう。転機は小学三年生だった1959年(昭和34年)に訪れる。父・昶が、日本の共産主義者の代表として世界の共産党組織である国際共産主義雑誌 『平和と社会主義の諸問題』編集委員に任命された。それに合わせて、長女の米原万里を含め一家は、編集局のある当時のチェコスロバキアの首都プラハに暮らすことになった。そして彼女は現地のソビエト大使館付属の国際学校に通うことになった。

 学校での公用語はロシア語である。どの国の子供でも小学生くらいの年代なら外国語学習能力が高いものだ。彼女も難解なロシア語を半年ほどで習得し、ロシア語のバイリンガルとなった。この能力を元に後、彼女は優秀な同時通訳者となり、ソ連邦崩壊にともなう日本の外交の一翼を担った。

 米原一家のプラハ暮らしについて、冷戦後久しい現代からすると、共産主義者が共産党を支える国際組織に参加するのは当然のようにも思えるかもしれない。しかし当時の社会主義諸国とソ連との関係は、民族的な歴史や地政学的な背景から複雑なものだった。同じ共産主義を標榜しながら、日本共産党もソ連の共産党とは、主に核兵器を巡るイデオロギーなどで反目していた。そうした、ソ連と各国の共産主義の齟齬の空気についても本書は子供の視点から生々しく伝えている。

青・赤・白の三色をたどり歴史の激流を追体験していく

 少女時代の米原万里はこうして、1964年の14歳までの5年間、50か国にわたる各国の共産党代表の姉弟と一緒に過ごした。本書は、そのうちの三人の友達について、その家族を含め一章ずつ充てて描いている。最初はギリシャ人の「リッツァの夢見た青空」。次にルーマニア人の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。最後はユーゴスラビア人の「白い都のヤスミンカ」の三編である。

 すぐに気がつくように、三編の表題はそれぞれ、青・赤・白の三色を示している。この三色はフランス国旗のトリコロール(tricolore)でもあるが、この旗が定まったフランス革命以前の15世紀ころから汎スラヴ色(Панславянские цвета)として定着した配色である。本書の配色もスラヴ民族の風土を暗示している。彼女たちが学んだチェコスロバキアの旗もこの汎スラヴ色で構成されているし、かつてのユーゴスラビアもこの配色だった。本書は物語で描かれたスラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である「汎スラヴ主義の内実」でもある。
※スラヴ民族:中欧・東欧に分布する、スラヴ語系の言語を話す人々。

 書籍としての表題には二編目の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」が採られている。理由は明記されていないが、その表現が面白いことに加え、共産主義を示す「赤」に含まれていたアイロニカルな歴史真実を、全体の命題として打ち出したい意味があるだろう。本書には重要な全体性が存在する。三編は連想的に書かれた短編の集まりではなく、登場人物を含め有機的につながり、三作目の「白い都のヤスミンカ」で協奏曲のように終わる。三編の三人はそれぞれ社会主義の終焉にともない故国を失うことになるが、そのもっとも大きな矛盾が第三章のヤスミンカを襲っているからだ。米原は、彼女たちを順に再訪することで、歴史の激流を追体験していくことになる。

怒濤の歴史に分断された中欧の民族

 それはどのような歴史だったのか。本書の執筆に近い年代の、1992年から1995年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(広義には1991年から2000年のユーゴスラビア紛争)があった。

 この紛争は、三編目のヤスミンカの人生を変える。それまでは自身をユーゴスラビア人だと認識していたヤスミンカだが、紛争の状況によってボスニアのムスリムとされ、迫害を受けることになった。紛争というものが起きてみるまで、社会主義的な無宗教を自然な前提に生きて来た彼女は、自身がそういう民族帰属・・・・・・・・・・になることさえ知らなかったのだった・・・・・・・・・・・・・・・・。ヤスミンカを探し訪ねた米原さえ、彼女をセルビア人だと思っていた。

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「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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