第七章 彼方と傷(3)

「ああ、……ギターはもう一年半くらい弾いてないんだよ。触ってもない。」
そう言う蒔野は、とある病に長いあいだ臥していた。
もう、彼はギターを弾くことはないのだろうか……。旧知のギタリストは疑問に思う。

「想像するだけでも辛そうだね。痩せた?」

「かなりね。それで、口の中はともかく、手足は、しばらくすると皮が剥けて来るんだよ。今のこの手も、その時に全部、新しくなった皮なんだけど、問題は、爪まで剥げちゃうんだよ。」

「えっ、……」

「付け根のところが浮いてきて、先端に向かってちょっとずつ。それが色んなところに引っかかって痛いから、爪切りでその浮いた付け根の方から切っていって、最後はぺりっと全部。」

 武知は飛び上がりそうな顔をした。

「どれくらいで生え変わるの、爪って?」

「半年かかった。その間は、一切ギターは弾けないよ。」

「恐いね、……気をつけないと、僕も。」

「いや、ほんとにそうだよ。俺も最初は、かなり絶望的な気分だったけど、もう腹を括るしかないから。こうなった以上は、また一からやり直そうと。しばらく、自分の演奏にしっくり来てなかったしね。」

「実際、どうなの? 大変だよね、取り戻すの?」

「それ以来、まだ一度もギターを触ってない。楽器のメンテナンスも、人に任せたままだよ。そんなつもりじゃなかったんだけど。……」

 武知は、言葉を失って、それをごまかすように、冷え始めた料理に箸をつけた。蒔野は、紹興酒のグラスに氷を足しながら、方々で話が弾んでいるテーブルを見渡した。

「もう、ギターは弾かないの?」

 ほど経て、武知は、蒔野の右手の爪が、一応は手入れされているのを見ながら、強張った面持ちで尋ねた。蒔野は、小首を傾げた。

「時々、ふと思い立って、ギターケースの前まで歩いて行くことはある。けど、そこで眺めてるだけ。手が伸びないんだよ、どうしても。」

「そう、……大変だろうけど、蒔ちゃんなら、また弾けるようになるよ。」

 蒔野は、淡々と語ってはいたが、急に目の焦点が曖昧になって、しばらくグラスの中の氷を見つめた。そして、曖昧に頷いて笑ってみせた。

「せっかく久しぶりに会ったのに、湿っぽい話になってしまって悪いね。」

「ううん、全然。」

「何とかしないとな、とは思ってるんだよ。俺にも生活があるし。チャラチャラ、テレビに出たりしてるのも、いい加減、ウンザリしてるから。」

「教えるのも無理なの?」

「だって、……こっちが弾けないと。祖父江先生のところも、今は人に来てもらってる。なんか、奏ちゃんが手足口病のことですごく責任を感じていて、それも心苦しいんだけど。俺は、彼女や彼女の子供に対して恨みがましい気持ちは、これっぽっちもないんだよ。それは本当に。」

「でも、蒔ちゃんの手がボロボロになって、爪が全部剥げちゃったりしてるの見たら、平気でなんていられないよ。」

「丁度、《この素晴らしき世界》のレコーディングを終えたところだったのが、せめてもの救いだったよ。あれと、その前に出してた《アランフェス》の収入でどうにか喰いつないでたから。」

「あのネットでやってる一般人参加のコンクールみたいなの、面白いね! 僕も、こっそり一曲、応募しようかと思ったよ。」

「武知君が弾いたら、すぐわかるよ、そんなの。あれも、レコード会社の担当は—グローブの野田っていう若い社員、知ってる?—もっと派手にやりたかったみたいだけど、俺が直接、登場できなくなっちゃったから、中途半端になってる。それでも、過去の映像を整理したりして、どうにかサイト自体は成立させてるけど。」

 蒔野は、小さく嘆息すると、つと顔を上げて、

「武知君の方は? そう言えば最近、俺にCD送ってくれなくなったねぇ? え? 俺は送ってるのにさ!」

 と冗談めかして彼を咎めた。

「だって、CD自体、出してないもの。元々売れなかったけど、多分、僕はもう、CD出せないと思う。実際、レコード会社には提案してるんだけど、断られてるし。コンサートも決まらないしね。だから、今回は本当にありがたかったんだよ。タイミング的に、色んな人が断ったあとで、僕に回ってきたのかなって気もしたけど。」

 武知は、そう言って肩を揺すって笑った。蒔野は、音楽業界の惨状は言うまでもなく知っていたが、武知の活動がそこまで行き詰まっているとは想像していなかった。

「去年のリーマン・ショック以降、特に厳しくなってるからね。……」

 そう、漠然とした受け答えをしたが、武知はそれに間髪入れず反応した。

「蒔ちゃんは、でも、復帰したらまたすぐにコンサートも出来るし、CDも出せるからいいよ!」

「そうでもないと思う。そもそも、復帰できるかどうかもわからないし。」

「勿体ないよ、僕なんかからすると。」

 蒔野は、武知の言葉に微かな棘を感じ、「どうかな、……」と言ったきり、うまく先を続けることが出来なかった。

 それからしばらく、「うわっ、まだこんなに?」と、運ばれてくる度に皆が目を丸くするような大皿の料理を食べながら、周囲も交えて英語で話をした。

 先ほど、残り香の話の時に言われた「あとを追わなかったのか?」という言葉が、酔いとともに妙な具合に頭の中を回って、蒔野に唐突に洋子のことを思い出させた。

 あれから二年。—彼女は今、どうしているのだろう?……

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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