日本建築論

​国のかたちを表象する建築:第10章(1)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。

○世界の中の国会議事堂

 ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2014は、建築家が主役ではなく、建物がメインとなることを謳っていたが、オーストリア館の展示は興味深いものだった。「権力の場所」である国会議事堂をテーマに選び、世界各国の国会議事堂の模型を壁一面に並べていたからである。しかも同じスケールであり、大きさや形態の違いが一目瞭然だった。とんでもなく巨大なものがあったり、驚くような幾何学的デザインのものなど、なるほど世界はかくも多様なのだと気づかされる。

 そのうちの1つの模型は、横にキャプションが表示されていないが、日本人であれば、やはりすぐにああこれが東京の国会議事堂だとわかるだろう。その模型はシンプルなヴォリュームに還元され、装飾的な要素が排除されているものの、古典的な左右対称の構成と両翼の中庭、中央の階段状ピラミッド型の塔屋、湾曲したスロープが目立つ。もっとも他国と比べて、その大きさや形態は、ずば抜けてユニークなものではない。

 先月、ベルリンを訪れたが、ノーマンフォスターがガラスのドームを増築した議事堂ライヒスタークは、二重螺旋がめぐる屋上のドームから眼下に議場を見下ろすことができ、重厚な古典主義の本体に対して、新しい民主主義の透明性を示す建築としてよく知られていよう。

 日本でも首都機能移転が騒がれていた1990年代、建築家の渡辺誠が、透明なガラスの塔状やフレキシブルジョイントによる不定形な新国会議事堂を提案している。国土庁のパンフレットに掲載された新国会議事堂のイラストも、緑の風景に包まれた透明な大ドームの外観だった。これらはあくまでもイメージだが、「国民に開かれた政治・行政」を直接的に表現したものだろう。その後、まったく首都機能移転の話題が消え、これらのイメージは当時もほとんど話題にならなかったが、もし現在、日本で新国会議事堂をつくることになれば、こうした透明で存在感が薄いデザインが求められるだろう。いや、そもそも国会議事堂をめぐる議論が盛り上がるのかどうかも疑問ではあるのだが。

 ところで、ドイツの国会議事堂は19世紀末に完成した後、1933年の放火事件を契機にナチスの全権委任法が制定されたり、第二次世界大戦で攻撃の目標となり廃墟化するなど、20世紀の歴史をダイナミックに刻んできた建築である。ひるがえって日本の場合はどうか。確かに、戦時下において空襲から逃れるために黒く塗ってカモフラージュしたり、現在もデモが行われるときは人が集まる象徴的な場所になっている。が、ドイツのように直接的に建築に歴史が刻まれたわけではなく、完成した後の変化は大きくない。むしろ、完成するまでの道のりが長く、その経緯が興味深い。ちなみに、1886年に最初の発議があってから半世紀で現在の姿に至っており、建設工事には16年もかかっている。

 実際、国会議事堂は、多くの建築家が関心を抱いた国家プロジェクトであり、コンペなどを通じて、相当な労力をつぎこんでいるが、アーバンデザインという視点でみたとき、手前にまともな広場がないことが、日本的かもしれない。国会議事堂に向かう車道の突きあたりは狭い歩道しかなく、デモを起すには不十分だろう。日本では広場が成立しにくいと言われるが、その典型というべき場所になっている。また真正面から道路は東に延びているが、なんとなく皇居に向くだけで、特定の建築と関連性をもたない。立法、司法、金融の中心である国会議事堂、最高裁判所(1974)、辰野金吾の設計した日本銀行(1896)など、国家の顔というべき建築は、それぞれにスタンドアローンで頑張ってはいる。だが、ばらばらに存在し、相互に連携する都市計画的な関係性が成立していない。

 もっとも、明治時代に外務大臣の井上馨は、ドイツからヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンを招聘し、壮大な街路と建築群によって構成された官庁集中計画をつくらせている。彼らは国会議事堂や裁判所の設計も依頼され、前者については中央に壮麗なドームをのせた古典主義案や、尖塔と和風屋根を組み合わせた案をデザインしていた。もしこれが完成していたら、欧米のような政治的な都市空間が東京にも出現していただろう。


○どのような政治空間なのか

 評論家の松山巖は国会議事堂を見学した際、「建物の中に日本的なデザインがどれほど盛り込まれているか」に興味をもっていたが、「実際に中を巡ってみると、日本的な意匠を施した部屋は少なかった」という(『国会議事堂』朝日新聞社、1990年)。なるほど、天皇が使う安土桃山の様式を取り入れた御休所(ただし、椅子式)、委員長室の折上格子天井のほか、細部に認められる意匠など、そうした要素は決して多くはない。

 確かに国会議事堂は、前回とりあげた皇居以上に、そもそも日本に存在しない政治のシステムとそれを反映した舶来かつ公的なビルディングタイプである。完全な洋風建築になったとしてもおかしくなかっただろう。実際、プロジェクトが始まった最初は、ジョサイア・コンドルや前述のエンデ&ベックマンなどの外国人が設計を依頼されている。また計画委員会も欧米の議事堂を視察しており、コンペを行うとしても当初は外国人を審査員にする予定だった。

 松山が日本的なものを探したのは、ゆえなきことではない。この連載でとりあげたように、近代的な躯体に和風の屋根をのせた「帝冠式」という言葉は、国会議事堂のコンペを契機に生まれたものだった。1920年、下田菊太郎は、古典主義の建築に入母屋、唐破風、千鳥破風を組み合わせた自身の案を「帝冠併合式」と説明したのである。当時この言葉はそれほど話題にならなかったが、1930年代のナショナリズムの高揚とともに、上野の東京国立博物館(1937) や愛知県庁舎(1938)などが登場し、こうしたデザインが帝冠様式と呼ばれるようになった。言うまでもなく、屋根でキャラクターを与える手法である。

 しかし、実際の国会議事堂は、簡素化した古典主義の外観をもち、和風の瓦屋根をのせていない。むしろ、中央の塔屋のてっぺんが、階段状ピラミッド型のヴォリュームになっていることが大きな特徴である。それ以外の屋根が基本的にフラットに見えるようになっているだけに、自ずと視線を集める部位だろう。また完成当時の国会議事堂は、三越本店や東寺の五重塔を超える、約65mという日本一高い建築であり、1960年代に百尺法と呼ばれた31mの高さ制限が撤廃されるまで首位の座だった。ゆえに、確実に△のシルエットを頂く、ランドマークとして目立っていた。

 竣工時に制作された『帝国議会議事堂建築の概要』(営繕管財局編纂、1936年)によれば、この部分は「段形屋根」と表現されている。日本の伝統的な建築から、このヴォキャブラリーを探すことはできないだろう。鈴木博之は、通常の形式ならば、左右対称の構成を強調すべく、ドームをのせるはずで、そうではないことに注目し、興味深い考察をしている(『日本の<地霊>』講談社現代新書、1999年)。大蔵省で実際にデザインを担当したのは、吉武東里であり、最初はドーム案だったという。鈴木によれば、平等院のような瓦屋根も検討されたが、最終的に古代の霊廟を参照したという。ハリカルナッソスのマウソロス王の墓である。そして同じ形態が使われた事例として、師匠の武田五一が設計した伊藤博文の銅像の台座を挙げ、初代内閣総理大臣を意識したのではないかと推測している。

 内部の空間構成は、両翼にそれぞれの院の議場を左右対称に配置していることが特徴だろう。両院制という政治のシステムが、建築の形式に反映している。そして中心軸は天皇のための空間だ。中央の玄関から広間を経て、ヴォールトの天井をもつバロック階段を登ると、突きあたりが天皇の御休所である。普段、上下に移動するためのものではなく、儀礼的なものだ。正面の大きな車寄せと中央玄関も、開会式のために天皇が訪れるとき、国賓が訪れるとき、そして選挙後に議員が初登院するときにしか用いられず、「開かずの扉」と呼ばれている。通常は両翼の玄関を使う。また中心軸の階段の下から、天皇の部屋は直接見えず、竣工時の記念切手でも、そうした構図が描かれている。見学で国会議事堂を訪れても、撮影が許可されない禁忌の空間だ。ちなみに、御休所と皇族室の真下は、総理大臣と大臣の部屋になっている。また参議院と衆議院は、ほぼ同じプランだが、前者の議場のみに、開会式のために天皇が座る正面の玉座と、背後の傍聴席中央に御座所をもつ。かくして、国会議事堂は、天皇制と民主主義の空間を重ね合わせている。

 オールジャパンという意味では、代表的な石を使う各国の議事堂にならい、1910年に国産を使う方針を固め、大規模な全国調査と試験を経て、各地から石の標本を集めてから選んでいる。例えば、山口県の黒髪石、広島の尾立石、新潟の草水みかげ、岩手の紫雲、茨城白、東京の青梅石、静岡の紅葉石、岐阜の赤坂石灰岩、岡山の黒柿など、日本全国の名石を用いている(工藤晃ほか『議事堂の石』新日本出版社、1982年)。ひとつの例外をのぞいて国産だった。ただし、それも朝鮮産なので、当時の感覚では外国ではなかったのだろう。また1970年には、議会開設80周年を記念して、前庭の遊歩道に各都道府県の木を植えている。意匠のレベルでは必ずしも日本的ではないが、宗教建築の造営でもしばしば試みるように、全国から参加したというプロセス、すなわち物語が重要なのだ。


○ 日本的なものをめぐる議論

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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コメント

lovesydbarrett この連載、相変わらず勉強になるなぁ。今回は国会議事堂について。これが本になったら見事な「日本論」が完成するな。今後も楽しみ。 2年以上前 replyretweetfavorite

consaba 日本的なものをめぐる議論 国のかたちを表象する建築:第10章(1)| 4年弱前 replyretweetfavorite