営業は価格の話をしてはいけない

以前とは比べ物にならない程、疲労のたまる営業職に明け暮れる美沙。お気楽OLだった頃、美沙はこんなに営業が疲れる職だとは思ってはいなかった。営業について悩む日々。だが、同僚の営業職がため息をついた時、ただ励ますことではなく、実のあるアドバイスをしてあげられることが美沙にとって心の支えだった。この小説は、ひとりの崖っぷちOLが会社の魂を変えるまでを描いた、奇跡のビジネス小説です。


今日も一日中外回りをしていた美沙がオフィスに到着して左手首に目を向けると、すでに時計の針は18時を回っていた。ついでホワイトボードに目を向けると、すべての営業陣は直帰となっていた。

「ふぅ」一息ついて自席に着くと、さっそくご褒美のホワイトモカを口に含む。温かい液体が喉を通って胃に浸透していく。それだけで安堵に包まれる。呑気にOLをしていたときには、そんなご褒美がなくとも打ちのめされるほど気持ちが参ることはなかった。しかし営業をするようになった今の美沙は、この小さなご褒美がどれほど自身を保つために大切なものかを知っていた。単純な美沙にとってそれは特効薬だった。

落ち着いた気持ちでメールの受信ボックスを確認していると、「ただいま」戻るはずのない営業陣の声が耳に届いた。PCから視線を上げると、残すエネルギー数パーセントといった脱力しきった姿の上杉がいた。

「おかえりなさい。上杉さん、直帰じゃなかったんですね」

「あぁ、そのつもりだったけど、まっすぐ家に帰る気にもなれなくて。なんか会社に戻っちゃった」

一人暮らしの美沙は自宅に帰ってもあたり前のようにひとりぼっちだ。その孤独に耐え切れず、こんな日は自然と会社に戻ってきてしまうのだが、家族がいる人間が同じ思考をしているとは思ってもみなかった。もしかしたら、自宅に誰かが待っているということは、時にはひとりぼっちの美沙よりも辛い状況なのかもしれない。気分が最低でも気丈に振舞わなければならないのだから。特に上杉は5つ年下の奥さんに弱みを見せられないのだろう。

「上杉さん、これどうぞ」

美沙は常備しているリポDを冷蔵庫から持ち出し上杉に差し出した。

「ありがとう」

上杉は受け取ると、勢いよく蓋を開け、ゴクリと一気に飲み干した。

「上杉さん、大変そうですね」

「まぁ。なかなか結果がでないからね。そう簡単にはいかないことは理解しているつもりだけど、やっぱ……参るよね」

「そうですね。結果がでないのに継続することって、体力も勇気もいりますよね」

「価格を下げないとやっぱり無理だよな。競合に負けるときって、やっぱり価格だもんな」

「それは違うと思います」

投げやりな上杉の物言いに、思わず美沙の語調が強くなる。

「でも破談になった客先数社にヒアリングしたとき、『値引きしてくれないとムリ』とみんな言ってたよ」

「でも、営業成績ナンバーワンの三上さんが値引きしたことないって知ってますか?」

「まぁ、そんなようなことは耳にしたことあるけど、三上さんは特別だろう」

「なぜですか?」

「経験値も違うし三上さんは才能あるからな。そもそも客先が違う。三上さんのお客様にたまたま金があったのかもしれない。それに実際、俺のお客様がそう言ってるんだから。『値引きしてくれないとムリ』ってさ」

「それは事実かもしれません」

「だから営業力っていうより、運なのかなぁ」

「運? それは運に助けられることもあるかもしれませんが、運で片付けてしまうのはちょっと違う気がします。お客様が『買おう』と決断する理由は価格だけではありません」

「いや、価格は大きいだろう。品質や納期も関係しているとは思うけど」

「お客様が決断されるとき、それは『しっくり』きたときです」

「しっくり?」

「QCD(Quality:品質、Cost:価格、DeliveryTime:納期)の条件は当然確認されると思いますが、数字を1つひとつ吟味しているわけではないんです。QCDを含めた提案全体がしっくりくる内容かどうかを、数字ではなく感覚で捉えているんです。人は経済合理性に基づいて判断をするわけではないんです」

「そうかなぁ? 競合が破格を出してきたら、そっちを選ぶだろう」

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chiponyo 公開されました!|[今なら無料!]キラキラワードに騙されるな! 私たちはやる気をなくす言葉に囲まれている 3年弱前 replyretweetfavorite